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2007年 2月号 No.703 |
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「生きる」という感覚を
基盤にした社会を創るべきとき
二十一世紀は生命の世紀だといわれる。しかし、現代社会はあまりに命を蔑(ないがし)ろにしてはいまいか。親が子を虐待の末殺す、また子が親を殺す、学校ではいじめが原因で自殺する子どもがいる。
私たちが合理性や利便性、経済性を価値基準として、この百年で築いてきた文明社会は、どうやら臨界点に達している。このままでは、生命の世紀は唱えるだけのものになりかねない。
人間は、新しい価値に基づいた別の文明を創出することができるのか。生命誌という学問を通じ、生命について、人間について問い続ける中村桂子氏にお聞きした。
「生きている」ことへの強い関心
― 読者の中には、生命誌という言葉に馴染みのない人も多いかと思います。生命誌とはどんな学問なのか教えていただけますか。
中村 生命は、およそ三八億年前地球に誕生しました。以来、今に至るまで、すべての生き物の中にその歴史が綴られています。生命誌とは、そんな生命の歴史物語を読み取る仕事です。
でも、私は最初から生命誌を研究していたわけではありません。大学で最初に専攻したのは化学でした。ナイロン繊維の登場に代表されるように、人間社会に資する学問として、化学に寄せられる期待が非常に大きかった時代でした。人間社会の発展に役立つものを生み出すことが、学問の主流だったのです。
そんな時代でしたが、私は大学院に進学する際、生物学を専攻することにしました。生物学の授業で、人間の体の中で物質がどのように動いているかを学び、生き物が「生きている」ということに強い関心を抱いたからです。私たちの体の中では、糖分が燃焼してエネルギーがつくられます。そのメカニズムを知って、私は二つのことに驚きました。まず、必要な物質を順序よく合成して、しかもその物質が循環していることです。今私たちはリサイクルという言葉を盛んに使いますが、そもそもどんな生物の体の中にも、サイクル、つまり循環系があるのです。
第二に、その回路では、エネルギーや物質が必要な量だけ随時つくられるということです。余分なものはつくらない。一方、現代社会はエネルギーを大量に使い、大量に物をつくり、大量に破棄します。生き物が本来もっているメカニズムから見れば、人間の文明はある意味野蛮なことをしています。生き物ってすごい。そう感じたので、人間が何を創り出せるかよりも、生き物を研究することが大きな魅力になりました。
― 当時としてはマイナーな学問を専攻されたわけですね。
中村 ええ。ところが、非常に興味深かった生命科学の研究にも、ある時期から違和感を覚えるようになりました。生き物を見ているのに、その見方が現代社会の科学技術文明の価値に基づいていたからです。私は、現代社会の横暴さ野蛮さの対極にある生き物の仕組みに関心があったのに、その生き物をまるで精巧な機械のように見ていたのです。DNAやタンパク質などの解明が進むほど、その傾向は進みました。生き物の体の中の仕組みを機械にたとえ、その機構を分析するために、部品としてDNAやタンパク質を見る。そんな生命科学の手法は、「生きている」ということを大切にしていないのではないか、そう思い始めました。
生命科学研究と同時に、家庭で子育てをしていたことも、そうした違和感につながったのかもしれません。家では、子どもが生きていることをトータルで受け入れて暮らしています。一方研究室では、生き物をまるで機械のように分析し、バラバラに分解した部品を調べます。この矛盾をなんとか解決したいと悩んでいたとき、ゲノムという考え方と出会いました。
「私の遺伝子」というものはない
― ゲノムという言葉もよく耳にはするものの、素人には漠然とした観念です。
中村 ゲノムは、ある生き物の細胞内にあるDNAのすべて。その生き物が生きる基本となる情報の総体のことであり、生き物が生きることを保証してくれているものです。ですから、ゲノムとして生命を見ることは、目の前にある生き物を、ありのままに「生きている」ととらえる日常感覚に似ています。
遺伝子という日本語のせいかもしれませんが、「私の遺伝子を遺したい」という人がいますね。しかし、「私の遺伝子」は存在しません。あるのは「私のゲノム」です。遺伝子は生き物すべてが共有している、いわばユニバーサルな部品です。その組み合わせにより、ヒトならヒトゲノムをもち、アリならアリゲノムを持ちます。だからゲノムが大事なのです。子供が親に似るのは、部品としての遺伝子の組み合わせが似ているからです。
また、ゲノムとして生き物を見ると、障害者と健常者という区別もおかしいことが分かります。生まれてくるということはたいへんなことで、生まれられない命がたくさんあります。生まれてきたということは、その人のゲノムが、全体として働いているという証明、保証です。長大なゲノムのなかには、うまく働けないDNAが確率上必ずあります。それはDNAがもつ性質です。それがたいへん厳しいところに出現する人と、そうでもないところに現われる人がいるわけです。私は小学校低学年から強い近眼です。生き物がゲノムを持っている以上、それは仕方のないことで、誰にでも起こりうることなのです。
― 生まれてきたこと、それがそのまま命として完成品であることを証明しているわけですね。
中村 そう。生き物である限り、DNAのうち働かないものが出現することは確率的にある。その事実を受け入れた社会でないとおかしいと思います。社会が「生きる」ことを規定するのではなく、「生きる」ということのもつ性質から、人間の社会を規定した方が、より自然でしょう。
ゲノムが「生きている」ことの証明
― なぜゲノムという考えが生物学に登場したのでしょう。
中村 生命科学の大きな課題は、ガンを遺伝子レベルで究明することでした。研究の成果により、ついにガン遺伝子が見つかり、これでガンは撲滅できると誰もが思いました。ところがその後もガン遺伝子が次々に発見されていったのです。そこで、そもそもガンとは何かが議論されました。細胞とは正常な状態では増えるものですね。細胞が増えないと、生き物の成長はありません。しかし、増え続けたら困ります。どこかで止まらなくてはならない。例えば怪我が治るのは、細胞が増えるからですが、傷が治ればそれ以上は増えません。生き物の面白いところは、際限なく増えずに、必ずどこかで「止める」というところです。ところが、ガンの細胞は「止める」ことを知りません。「ここで止めましょう」が分からないのです。
また、たとえば胃ガンのガン細胞はそもそも胃の細胞から始まっているはずです。胃の細胞は胃で働き、他へは移らない、これも細胞の基本的な性質です。ところがガンになると、胃のガン細胞が他の所に移ります。生き物は働き所という意味でも、その限度を知っているはずなのに、ガン細胞はそのコントロールも効きません。
― まるで自然界における人間のような存在ですね。
中村 そう。どんどん増え続け、どこででも働くガン細胞は、それだけに注目すると優秀とも言えます。しかし、ガン細胞が元気だと、体全体は死んでしまうという事態につながる。つまりガン細胞は、細胞としての本質を失い、生きているということの基本部分がおかしくなっているのです。つまり、ガンを知るとは、「生きている」ということを知ることと言ってもよい。ガンはそれほど本質的な病気です。
― ガンを知るためには、人間がもっている遺伝子を全部知らないといけないということですね。
中村 そう思ったのですね。でも、ヒトゲノムのもつ遺伝子だけを研究しても「生きる」は見えません。遺伝子を単位とするのではなく、ゲノムを単位として「生きている」ということを考えることが大事だと私は思います。もちろん、部品としての遺伝子を調べることは重要ですが、それはゲノム全体を見るための一過程です。
ゲノムに刻まれた三八億年の歴史
― では、「私のゲノム」を「私のゲノム」たらしめているものはなんなのでしょうか。
中村 なぜ私のゲノムが私の中にあるのか、それは私の両親からもらったものです。両親の精子と卵子が一緒になった受精卵から私のゲノムはできました。では両親はそのゲノムをどこから譲り受けたか、そのまた両親からです。そうやって遡っていくと、約三八億年前の生き物の始まりに行き着きます。人間ばかりでなくすべての生き物が、ここから始まりました。それがどんな細胞であったか、私たちは知ることはできません。しかし、私のゲノムを見ることで、私が私になってきた歴史を見ることができます。今地球上にいる生き物はすべて、この三八億年の歴史を体の中に刻んで生きています。しかも、元をたどれば同じ細胞から始まっているわけですから、生き物はすべて仲間です。生き物すべてが関係をもち、生き物すべてが三八億年という時間を過ごしてきて今ここにいる、その証がゲノムです。ゲノムを単位として考えることで、DNA研究は、私の日常とつながることに気づきました。生命誌こそ、生き物をほんとうに研究することだと分かったわけです。
― 地球上に生命が誕生して以来、あらゆる生き物がその歴史を背負っており、その結果として今があるのですね。では、現在のように多様化、複雑化した地球上の生き物は、たとえば一億年後、どんな様相を示しているのでしょうか。
中村 それは分かりません。ただ、地球という星は、生き物を支えてきてくれました。もちろん、ときにとても厳しい環境になります。かつて恐竜が経験したように、ある生き物が繁栄し、後に絶滅し、また別の生き物が現われる、そうした繰り返しが起こる場所です。しかし、生き物は「何とか続いていこう」という基本的性質を持っています。私たちが自分のゲノムを遺したいと思うのも、私たちが生き物だからです。生き物にとって大事なのは、続くことです。そうして、一つのゲノムは、他のゲノムと組み合わさって続き、生命はより多様になるでしょう。生命誌はそうやってこれからも綴られていくだろうと思います。
「ものみな一つの細胞から」
― 個体発生は系統発生を繰り返すといわれますが、これも三八億年の歴史がゲノムに刻まれているからなのですか。
中村 その言葉がすべてを言い当てているわけではありませんが、生き物が一つの受精卵からできあがっていく過程を観察すると、どんな生き物でもある時期に同じような形態を経ます。私たちは母親のお腹の中で羊水の中にいますから、肺呼吸はできません。五億年前の地球において、それまで海の中にいた生き物が陸に上がろうとして、呼吸の仕方を変えたように、人の誕生は誕生の瞬間に肺呼吸を始めます。ある種の過程を発生の途中で経ていることは確かです。
私は「ものみな一つの細胞から」と象徴的にいっていますが、これはふたつのことを意味しています。一つは、すべての生き物が三八億年前に生まれた細胞から始まっているということ。もう一つは、私たちすべてがたった一個の受精卵から始まっているということです。大事なことは、生き物は手抜きをしないということ、必ず一個の細胞に戻って一からその命を始めるということです。
― 途中から始めた方が合理的だからと、クローンをつくりたがる人もいますね。
中村 ええ。今の社会の価値観ですと、なるべく効率よく便利に早くやるのがよしとされます。手抜きできるところはした方がいい。すべてを元に戻して一からやるなど馬鹿げたことだと思いかねません。でも「生きる」というのは、その過程がすべて「生きる」ということで、途中を飛ばしてしまったら何も意味がありません。生き物がこの世に生を受けるとき、たとえ面倒なようでも、一からやって育っていく、それが生き物なんです。現代社会の価値観である効率は合いません。一から積み重ねたからこそ、一人ひとりが「生きて」いるんです。
そうした生き物としての価値観で社会を作っていくことが大切なのではないでしょうか。私たちは生き物なんだから、すべてのことを「生きている」ということを基盤に考えましょうと提案したい。日常生活の中で、合理化できるところ、手抜きのできるところは、今の技術を使ってその恩恵にあずかることを私も否定しません。ただ、それが主流になって、生き物が丹念にやっていることを馬鹿馬鹿しいと決めつけるのは危険です。
農業が産業の基盤である国こそ先進国
― 今の社会は、「生きている」ことの価値を蔑ろにしたために、おかしくなってはいませんか。
中村 その通りです。たとえば日本の国は農業を軽んじました。農業は社会の基盤です。自分が食べるものは自分でつくる、「生きている」ということから考えればそれが基本です。ただし、分業が進んでいる世の中ですから、全員が農業に携われるわけではありません。少なくともあるコミュニティの中でいただくものは、そのコミュニティの中でつくるというのが、原則だと思います。
― ところが、日本の食糧自給率は四割程度ですよね。
中村 なぜそんなことになってしまったのかといったら、農業は時間や手間がかかるのに思い通りにいかず割に合わないと、合理性や利便性優先で決めてしまったからです。そうではなくて、時間も手間もかかること、天候など自然条件に左右されること、すべてを我々の社会が引き受ける決心が必要なのです。それが農業をやること、「生きる」ということです。二十一世紀の日本は、農業を社会の中にもう一度きちんと位置づけてほしいですね。農業が社会の基盤になっていること、それは先進国の条件だと私は思います。
― 確かに、欧米先進国は農業大国でもありますね。
中村 日本同様、第二次世界大戦で敗戦国となったドイツも例外ではありません。本当に自分たちに合ったものを、いちばんおいしく、いちばん栄養価高く、いちばん安全に食べるには、自分たちでつくることです。それが風土にもつながるのです。食べ物にはその土地の歴史や文化が刻まれていますね。食べることは、私たちが生きることの基本であり、日常を通して、文化や歴史を後世に伝えることにもなります。また、そうした日常の積み重ねが、人間関係も豊かにします。そこを経済的な合理性や利便性だけで放棄してしまったら、生きている意味がないじゃありませんか。
― 「身土不二」という言葉の通り、命とは、その土地の風土が育てたものの中で巡っているわけですね。
中村 「生きる」ということを基本に、そうした暮らしを取り戻すことができたら、笑顔の足りない今の世の中もずいぶん変わるのではないでしょうか。
「生きる」ことに忠実な農業高校
― これからの日本は、「生きる」ことを基本に新しい価値観を築けるでしょうか。
中村 できると思います。私は、農業高校が好きで生徒さんとも接するのですが、それを実感します。東北の学校で羊を飼育し、羊毛を染色して衣類をつくりました。もともとその土地の女性たちがもっていた染色技術を生徒たちが学び、これを復活させようとしたのです。研究の結果、従来なかった赤色を天然染料から出すことに生徒たちが成功して、お年寄りが喜んだのです。伝統を大切にしながらも、自分たちが学校で学んだ知識で創意工夫し、より豊かなものを産み出した。これです大事なものは。
技術だけではありません。私が農業高校を応援するいちばんの理由は、どこへ行っても、生徒さんの挨拶が素晴らしいからです。コミュニティの基本は挨拶でしょう。挨拶ができるところは、人間関係がきちんとできていますし、一人ひとりが生き生きしています。普通の高校に伺うより、農業高校におじゃました方が、明らかに気持ちのいい挨拶をしてくれますよ。
― それは彼らが、日頃からありのままの生命に触れているからでしょうか。
中村 そう。毎日顔を見て、ご機嫌を伺い、世話をしなくてはいけませんから、生き物に接することはたいへんなことですよね。農業高校では、生徒さんたちが慈しみをもって動物たちを可愛がっています。だから、豚も牛も、生き物がみな生き生きとしていますよ。
― ペットを育てるのとは違い、農業高校で飼われている生き物は、最終的には食べることを目的としているのにですか。
中村 本当に生き物に接するということはそういうことですよ。食べることは「生きる」ことの基本です。生き物は互いに他の生き物を食べて生きているじゃありませんか。スーパーに並ぶ食材だけ見て、命が「生きている」ことを見ることなく日常を送っている人が、生命尊重などといっても、それは口先だけのことです。
― 農業高校の生徒こそ、生き物として自然だということですね。
中村 そう。同様に、地方で農業やその土地の食文化を大切にして生きている人たちも、これからの社会に新しい価値をつくるために、欠くことのできない存在だと思います。地方での暮らしがどんどん力をもっていったら、日本は暮らしやすい国になると思いますね。
― 「生きる」ことから社会を見直すことで、社会にも新しい活力が生まれる可能性がありそうですね。本日はありがとうございました。
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