CCI

   2006年 12月号 No.701




新世紀への提言




鈴木 修
 (スズキ株式会社代表取締役会長)
1930年岐阜県下呂町(現・下呂市)に生まれる。中央大学法学部卒業後、銀行に勤務。鈴木自動車工業株式会社2代目社長の鈴木俊三氏の婿養子となり、58年に同社に入社。63年に取締役、78年に社長に就任し、2000年から現職。2005年浜松市行財政改革推進審議会会長就任。

  


チャレンジを
継続しない経営者に明日はない


 スズキ株式会社は、一九二〇年に鈴木式織機株式会社として設立された。現在、連結売上高二兆七千五百億円(二〇〇五年度)を誇り、軽自動車の売上国内ナンバーワンの座を三〇年以上守り続けている。
 スズキは、アルトやワゴンR、スイフトなど、エポックメイキングなコンパクトカーを世に送り続けるとともに、インド市場にいち早く着目し、現地で成功を収めている。
 同社を社長として二三年間、会長として今も第一線で牽引する鈴木修会長に、経営者に求められる資質とは何かをお聞きした。

一九五二年、二輪車事業に転身

― スズキさんの今に至る発展は、どこに要因があったと、鈴木会長はお考えですか。

鈴木 一言でいえば、非常に運よく、時流に乗ったということでしょう。浜松は歴史的に繊維産業が中心で、これが後に織機等の機械工業に移り、やがて輸送用機器へ、さらに光産業へと変遷しています。こうした大きな流れのなかで、スズキは、一九四〇年から終戦の一九四五年までの五年間は軍需産業に携わり、四五年から五〇年までは、鍋釜をつくって糊口を凌ぎました。織機産業で培った鋳物技術に加え、軍需産業で養った鉄の切削技術を活かして、五二年に輸送用機器へ進出しました。これが当時のバイクブームに乗ったのです。
 豊田自動織機さんや、エンシュウさん(工作機械、輸送用機器部品メーカー。遠州織機が前身)も浜松出身で、当社と同じような経過をたどっています。

― 浜松には優秀な技術者が多かったということはありませんか。

鈴木 そうなんです。それもこの地域の産業発展の一因です。戦前、鉄道省浜松工場が機械鍛冶職人を養成し、やがて彼らが織機をつくり、二輪車や四輪車をつくったという経緯があります。また、浜松高等工業学校(現在の静岡大学)の学生が卒業後、地域企業を技術的に支えたという背景もあります。ホンダさんはその典型ですが、国内の二輪車産業を牽引した技術者は、ほとんどが浜松高等工業学校の出身者です。

― 四輪車分野では、スズキさんは日本の軽自動車時代に先鞭をつけましたね。

鈴木 二輪車が輸出産業に移行するとともに、国内では四輪車産業が盛んになりました。四輪車市場への参入はホンダさんに先を走られましたが、当社も軽自動車の発売によりなんとかこの流れに乗りました。

― 軽自動車といえば、「アルト」という時代が訪れましたね。

鈴木 アルトを発売したのが、一九七九年五月で、私が社長に就任して一年後のことでした。それまでも当社は四輪車事業を展開していましたが、このアルト発売をもって、スズキの事業の主体は二輪車から四輪車へ移っていきました。

大ヒット車「アルト」を生んだアイデア

― まさにアルトは国内の四輪車市場の戦略車となりましたね。

鈴木 おかげさまです。実は、私が社長になったとき、すでにアルトは発売を待つだけの状況でしたが、あえて発売時期を一年遅らせ、この間に改良を施しました。このアイデアが当たったのです。

― 会長がアルトに注がれたアイデアとは、何だったのでしょう。

鈴木 第一に、単一グレードにしたことです。当時の車は、スタンダード、デラックス、スーパーデラックスなどのランクがありました。人間の心理とは面白いもので、同じ車種でも、他人が自分より上級グレードに乗っていると癪に障ります。私の運転手を見ていてもそうです。自分が運転している車より上のグレードの車が前にいると、目を向けようとしません。他人よりいいものが欲しいという欲望は、子どものころから人間に備わっているもので、誰の心理にも少なからずあります。とりわけ、女性は男性より見栄っ張りでしょう。
 アルトのような車は女性がターゲットですから、従来どおり複数のグレードを設ければ、女性は無理をしてでも高いグレードを購入するでしょう。しかし、それでは多くの女性の支持を得られません。単一グレードにすれば、誰に構うことなく納得してアルトに乗っていただけると考えたのです。

― 他には、どんな工夫をされたのですか。

鈴木 全国統一価格にしたことです。当時は同じ車でも、購入する地域により価格が異なりました。陸送の費用が追加されたからです。アルトはこれを廃し、全国どこで買っても一律四七万円にしました。国内自動車メーカーでは初めての試みでした。
 もうひとつのアイデアは、物品税を抑えるために、商用車登録のライトバンにしたことです。後部座席は極めて簡素ですが、その代わり前の座席は、助手席もリクライニングシートにしました。これが若い男女に受け容れられました。

またたく間に月産二万台に増産

― 鈴木会長には、アルトが爆発的にヒットするという予感が初めからおありだったのですか。

鈴木 いえいえ、そこまでは考えていないですよ。忘れもしません。アルトを発売する直前の一九七九年五月十一日のことです。京都の国際会館で、西日本の販売店大会があり、そこでアルトを発表しました。販売店の皆さんに、「何台売ってくれるか」と聞くと、彼らは「月に五千台売ります」と答えてくれた。翌日東京の椿山荘で東日本の販売店大会があり、やはり五千台売るとの答えです。全国で計一万台です。これより前、当社の営業担当に「価格を四七万円にするから月に全国で五千台売ってくれ」というと、営業は「社長、五千台は無理です。三千五百台がせいぜいです」といって弱気でしたが、私は販売店の意気込みを話半分に聞いたとしても、全国で月間五千台は売れると見込み、設備投資を敢行しました。ところが、いざ発売になると、生産が需要に追いつきません。急ごしらえで設備を追加して生産するうち、あっという間に月産二万台に到達しました。

― アルトが発売になったのは、国民所得の向上による上級自動車への移行があり、全国的に軽自動車の売上が下がった時期ですよね。そのタイミングに、よくぞ四七万円で発売されたと思うのですが。

鈴木 当社では、大手メーカーのような立派な乗用車はつくれませんし、当時二輪車事業は細々でした。新しいタイプの四輪車を出さなければ、生き残れないという実情もありました。一方で、見た目の格好よさだけでなく、乗る人の使い勝手で車を選択する時代が訪れていたのですね。「アルトはあるときは買い物に、あるときは幼稚園への送り迎えにと、用途にあわせて使える車です」と、発売を前に私は、販売店の皆さんに説明しましたが、その多用途車としてのコンセプトが、世の中に受け容れられたのだと思います。

世界のどこかでトップになる

― スズキさんは、いち早くインド市場に着目され、インドで自動車の生産を始められました。どんな経緯でインドに進出されたのですか。

鈴木 今から二五年前、インドには国民車構想があり、インド政府は、国内に小型車を普及させたいと考えていました。そんな折、アメリカのGM(ゼネラルモーターズ社)がアルトの爆発的なヒットに目をつけました。オイルショックが自動車産業にも影を落としていましたから、小型車市場に参入したいと考えたのです。しかし、GMにはそのノウハウがない。そこで、八一年にGMとスズキは小型車に関する業務提携をしました。
 世界に名だたるGMがスズキと業務提携したことを、インドの自動車メーカーが東京モーターショー等で知り、インドの国民車としてスズキの小型車を候補にしたのです。私もこれに手を挙げ、八二年にインド・マルチ社とスズキ四輪車の生産、販売契約を正式調印し、翌八三年からインドにおける生産を開始しました。その五年後の八八年には、インドで十万台を生産する規模となりました。

― 鈴木会長には、社長就任当時から海外での生産が視野にあったのですか。

鈴木 当時、二輪車では国内四社のうち常に三番目で、ホンダさんやヤマハさんには敵いませんでした。また、アルトを売り出したものの、国内十二社の四輪車メーカーのうち、最後発の当社の売上は最下位です。私が考えたのは、世界のどの国でもいいから、四輪車市場でトップになることです。それが従業員を鼓舞することにもなると思いました。そのためにはどうすればいいか。自動車メーカーがない国へ進出すればいいと思い向きました。
 実際、インドに工場をつくったものの、初年度の生産台数は八百数十台でした。日本国内の四輪車メーカーからは、「スズキのインド進出は勇み足で、あの事業は絶対に失敗する」とこぞって笑われましたよ。冒頭で、当社が発展したとおっしゃったが、大きく伸びたのは、アルト発売以降二七年間のことです。売上高が二兆円になったのもここ五年のことですし、一兆円企業になったのも、一九九〇年度のことです。それまでは五、六千億円の売上規模の時代がずっと続きました。

― 現在、インドでの生産台数は、五十万台を超えていますね。

鈴木 ええ。五十八万台にまでなりました。

インド市場はこれからが正念場

― やはり鈴木会長に先見の明がおありだったのですね。

鈴木 いえ、インドがBRICs(ブリックス)の一員としてもてはやされるようになるとは、思いもしませんでしたよ。ただし、進出当時、インドには二万五千台ほどの生産規模の自動車メーカーが二つあったものの、車の設計は前近代的なものだったこと、人口が多く市場規模が大きいこと、国土が広く自動車が普及する潜在的需要があること、政治的に安定していること、これらをあわせると勝算はあると思っただけ。そこに市場があったからインドへ出たまでです。

― 今後ますますインドマーケットは注目されると思いますが。

鈴木 一九九五年にインドの自動車市場が自由化されると、トヨタさんやホンダさんもインド市場に参入し、二〇〇〇年ごろから生産・販売を始めました。九五年までは、二流三流のメーカーがインド市場で争っていたために、当社でも勝てたのです。しかし、今は世界の一流メーカーとの競争です。どのメーカーも打倒スズキで動いています。インド市場で先行したとはいえ、スズキにとってはこれからが正念場です。

経営者とは戦い続けるもの

― 外から見るスズキさんは、経営の危機などなく、順調に業績を伸ばされてきたように思いますが。

鈴木 そんなことはありません。たとえば一九九八年に自動車の規格が変わり、側面からの衝突安全性で、小型自動車(5ナンバー車)と同じ水準の強度が求められることとなりました。この際、問題となるのが全長と車幅です。例えば車幅は、ドアに強度を持たせるために厚くして、かつ軽自動車の規格に納めるには、室内空間を狭くせざるを得ません。室内をそのままにドアを外へ拡げるには、規格を変えていただく必要がありました。結局、車幅を八センチ拡大し一・四八メートルとしていただきましたが、これが許されなかったら、軽自動車の将来はなかったでしょう。

― 環境変化をものともせず、三兆円企業となるのも目前ですが、経営者にとって最も大切な資質とは何であるとお考えですか。

鈴木 マンネリ化に陥らないこと、チャレンジし続けることでしょう。

― アルトの発売を一年遅らせてまで取り組んだ改善などは、なかなか一般の経営者にはできないことだと思いますが。

鈴木 何をやったら売れるか、お客さんに喜んでもらえるか、普段から考えていればいいのです。
 経営者とは、常に獲物を漁っているものです。もちろん同じ獲物を狙う敵もいます。そんな競争の真っただ中にいる者が、満足して立ち止まったらおしまいですよ。経営者は戦い続けねばなりません。

― その精神は、後継者にも引き継げるものですか。

鈴木 怒鳴りつけても、引っ叩いても、それでも立ち上がってくる者でないと、後継者になどなれません。会社の人材を育てる場合もそう。山本五十六は、人はおだてて育てろといったそうですが、私など、会社で怒鳴ってばかりです。経営者が気を緩めたら、その気の緩みは必ず会社に伝播します。

― インドでも、鈴木会長の怒鳴り声が現場に響くわけですね。

鈴木 もちろん。経営者と従業員の関係は、心と心の問題です。言葉や肌の色や風俗習慣が異なろうが、人間対人間であることに変わりありません。経営者のハートは通じるものです。

いいものをつくれば会社はよくなる

― 心を通わせるためにも、経営者は現場を大切にしなければなりませんね。

鈴木 そりゃそうです。間接部門しか経験がなく、現場を知らない人間がトップになったメーカーは、たいがい潰れますよ。彼らは、経営とは管理であり、人間を管理していれば足りると勘違いしています。それで会社がよくなるわけがない。会社をよくするには、いいものをつくること、つくり続けることです。スイフトが世界十二カ国で二六の賞を受賞しても私はそれで従業員を満足させません。「やればできるじゃないか。もっといいものつくれ」。経営者だけでなく、従業員にも現状に満足せず、いつも前を向いて走り続けてもらうように、励ますことも経営者の仕事でしょう。

― スズキさんも含め、順調な四輪車事業の陰で、日本の二輪車産業は、今後世界市場において存在意義を示していけると思われますか。

鈴木 かつて日本の二輪車メーカーが欧米の二輪車メーカーを世界市場で圧倒したものの、欧米のメーカーは今なお上級車種を中心として確固たるブランドを守っています。現在、中国やインドの二輪車メーカーが台頭しているとはいえ、日本の二輪車産業がまったく廃れるかといったらそうではないと思います。

― 歴史は繰り返すのですね。

鈴木 そうそう。環境の変化や市場ニーズを読んで、次はどういう車をつくるべきか、常に考えることが重要です。企業の浮き沈みは、ほぼ二五年を周期に繰り返します。どの会社にも、各々そのバイオリズムがある。でも、次にどうするかを、業績が下がったときに考えたのでは遅すぎます。下り坂は加速度的に落ちるものです。業績がピークのときに、次の手を考えるのです。「この程度の働きで会社は儲かるんだ」などという慢心を、経営者は絶対社内に芽生えさせてはいけません。

― スズキという会社は、鈴木会長にとって、どんな存在ですか。

鈴木 自分の鏡だと思っています。会社とは、経営者の身も心も映し出す鏡ですよ。

情報公開こそ行財政改革の鍵

― お話は変わりますが、鈴木会長は、浜松市の行財政改革にも、民間のお立場から関わっておいでですね。どんな思いから始められたことでしょうか。

鈴木 合併により新浜松市が誕生し、自治体運営を合理化すべきときに、浜松市は政令指定都市を目指し、行財政の肥大化を図ろうとしました。民間の経営者は、従業員を叱咤激励し、利益を出して、そこから税金を納めています。それを無駄遣いされたのでは、従業員に申し訳がありません。行財政改革推進審議会に加わったのは、そんな理由からです。

― 日本の行政のいちばんの問題点は何であるとお考えですか。

鈴木 情報が未公開であることです。情報を公開すれば、市民は関心をもちます。しかし今の行政は、一般市民にはなるべく関心をもたれないようにしています。関心をもたれたらまずいことが、あるのでしょう。行政にとって税金は、身銭を切った金ではないので、コストダウンをしようなどとはまったく考えていません。民間の意識とは程遠い、厚遇の手当も山ほどあります。

― 節約するより、使い切ろうという発想ですね。情報公開すれば、そうした高コスト体質も自ずと改善されるでしょうか。

鈴木 ええ。それと複式簿記の導入が必要です。費用と収入、資産と負債・資本をきちんと区別し、必要な引当や償却をしっかり取り、誰もが理解できる形で自治体の財政の真の姿を示すことです。そうすれば、決算スピードが早まり、早期の情報公開も可能になり、結果として健全な事業運営につながります。
 浜松市への答申に先立ち、私が浜松商工会議所の副会頭となった一九七八年に、会議所に複式簿記を導入し、職員には自分たちの給料がどこから出ているのか、意識づけを徹底しました。以来、会議所では会費を値上げしていません。コスト意識が根づいたわけです。他にも人事異動を頻繁にし、また経理課長を会頭の会社から出すなど組織に緊張感をもたせました。
 そうした改革が、行政でも必ずできるはずです。現に三重県や鳥取県など、先駆的に取り組んでいるところもあります。やればできるんですよ。変化を恐れず、果敢に改革にチャレンジすることが重要です。

― 経営も行財政運営も、トップがいかに組織に改革の当事者としての意識を植えつけるかが大切なのでしょうね。本日はありがとうございました。


  




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