CCI

 8月号 No.673




新世紀への提言

稲尾 和久
 野球評論家

元西鉄ライオンズ投手。1937年大分県生まれ。56年に西鉄ライオンズ入団。1年目から21勝6敗、防御率1.06で最優秀防御率、新人王のタイトルを獲得。58年には33勝、防御率1.42、奪三振334で、最多勝・最優秀防御率・奪三振王のタイトルを総なめ。同年の日本シリーズでは巨人に3連敗の後4連投し、チームも4連勝、シリーズ3連覇を成し遂げた。61年には78試合に登板、日本記録に並ぶ42勝を上げた。生涯成績は通算登板数756試合、通算勝利数276勝、防御率1.98
 現役引退後は西鉄ライオンズ監督、中日ドラゴンズコーチ、ロッテオリオンズ監督などを歴任。現在はマスターリーグ・博多ドンタクズ監督。

  


夢に向かってがむしゃらになれる
自分を思い出してほしい


 戦後日本がまだ若かった頃、奔放にグラウンドを駆け巡り怒濤の強さを見せた西鉄ライオンズは、 ”野武士集団“とも称された。そのエースとして君臨したのが、稲尾和久氏である。日本シリーズで四連投四連勝し、「神様、仏様、稲尾様」と謳われた鉄腕は、ファンの心にも鮮烈な記憶を刻んだ。
 稲尾氏のタフさを、西鉄の組織としての強さを、日本が高度成長を遂げる過程の過去の物語として語ることはたやすい。しかし、時代や世代が異なっても、明日を拓く活力へのヒントを、私たちはそこに見つけられるのではないだろうか。

今の選手とは基礎体力が違った

― 昭和三十三年のプロ野球日本シリーズでは、西鉄が巨人に三連敗の後、稲尾さんが四連投して四連勝、劇的な逆転優勝を果たしました。あのシリーズで稲尾さんは、六試合に登板されています。稲尾さんはなぜあれほどタフだったのでしょうか。

稲尾 僕自身自分がタフだとは思っていません。当時はみんなそうでした。中一日、中二日はもちろん、連投も当たり前の時代でしたよ。

― 現在のプロ野球では、投手が自分の体をいたわるのか、コーチや監督が無理させないのか、とても同じことはできないですよね。

稲尾 僕が一年間で最も多く投げたのは、一四〇試合中七八試合です。これに比べて、なぜ今の投手は体がもたないのかと聞かれます。僕らが使われ過ぎたという一面もあるでしょう。しかし、それがプロの世界では当たり前だと、僕らは思っていました。使ってもらえるということは、成績を上げられるチャンスです。成績が上がれば、プロだからお金になります。使ってくれる監督に対して、感謝こそすれ、不満などなかったですね。
 僕が監督や投手コーチを務めた経験から言うと、今の選手と僕らの時代の選手の違いは、まず基礎体力です。

― こと食糧事情に関しては、稲尾さんの少年時代の昭和二十年代が、今よりよかったとは思えません。稲尾さんは別府の漁師町にお生まれになり、子どもの頃から、お父様とともに海に出られていたとお聞きします。そんな経験が、おのずと稲尾少年の体を頑強なものにしていったのでしょうか。

稲尾 それもあるでしょう。また、当時の子どもたちは皆裸足で土の上を走り回っていました。医学的な裏づけはないかもしれませんが、土の養分を足から吸収していたのではないでしょうか。

― 裸足でしかも上半身裸の子どもがたくさんいましたね。

稲尾 そう。足からアルカリ分をはじめ土の養分を取り入れて、太陽の光を浴びることで、ビタミンDやカルシウムを体の中に作り、自然と子どもは健康でした。

― 農村でも、田植えを手伝ったりすると、子どもは裸足で田んぼに入りました。これも、同じ理屈かもしれませんね。

稲尾 僕らの時代の子どもは骨太の肉細でした。対して、今の選手たちは骨細の肉太です。筋肉は逞しくても、レントゲン写真を見ると骨が細い。自然の中で育ったか否かで、こうも昔と違うものかと驚きました。今は怪我をするから駄目だと言って、土の上を裸足で歩かないものね。靴を履いて、しかも地面はコンクリートで固められて、土の養分なんて入りようがないですよ。

がむしゃらになれた時代の幸せ

― 稲尾さんが西鉄に入団されたのが昭和三十一年ですね。昭和三十五年に日米安全保障条約の改定があり、その後の池田内閣時代に「所得倍増計画」が打ち出され、日本は高度経済成長の波に乗ります。つまり、稲尾さんが入団一年目から大活躍された頃、日本は戦後の混乱からようやく立ち直ろうとし始めた時期ですね。

稲尾 日本が敗戦を迎えたのは、僕が小学校二年生の時でした。育ち盛りですが、物がない時代です。何がいちばんの幸せかと言ったら、とにかく腹いっぱい食べることでした。プロ野球という競争社会に入って、文字通りハングリー精神で野球に打ち込みました。自分が投げた試合で勝ったら、給料が上がる。給料が上がれば、腹いっぱい食えるというのが正直な気持ちでした。
 入団一年目のある試合で、九回一点リード、走者満塁ツーアウトというピンチを迎えました。ヒットを打たれたら、同点もしくは逆転です。川崎徳次投手コーチがマウンドにやって来ました。交代かと思った僕に、川崎さんは「稲尾、この打者を打ち取ったら、試合の後で分厚いステーキを食わしてやる」とはっぱを掛けるのです。この言葉に力を得て打者を仕留めたことがありました。

― 「ステーキ」という言葉に神通力があったのですね。

稲尾 僕の現役時代はね(笑)。それから二十九年後の昭和六十年、僕がロッテの監督時代に、全く同じ局面がありました。投手は村田兆治です。

― 肘の怪我からカムバックして、毎週日曜日に登板することから、 ”サンデー兆治“の異名を馳せたあの頃ですね。

稲尾 そうそう。僕は自分が現役の時を思い出し、彼に同じことを言ったわけです。ところが村田は僕にこう言うわけです。「監督、肉だけじゃバランスが悪いです。野菜も食べないと」って。

― 村田さんの世代になると、ステーキがことさらご馳走ではなくなったのですね。

稲尾 時代が違うのですね。僕らの時代には野球選手に限らず、ほとんどの日本人が、腹を満たしたいと思い、仕事に励む自分への鞭になったのではないでしょうか。そして一方で、誰もが自分の夢に対して、がむしゃらになれた、バカになれたのは、とても幸せだったと思います。

打席で「無」を感じさせた長嶋

― 稲尾さんは精緻なコントロールと頭脳的なピッチングにも定評がありました。なぜあんな芸当ができるのか、これも素人には驚くばかりです。

稲尾 ストライクコースにボール三分の一個の出し入れができるのがプロの選手です。マウンドとホームベースの距離は一八・四四メートルあります。投手から、幅にして三四センチ、高さにして打者の脇から膝までの間にコントロールするためには、手がボールを放すわずか零コンマ何ミリでストライクゾーンを調整していました。

― 人間業ではないですよね。

稲尾 指先での絶妙な調整を可能にする絶対条件は、投げる形が機械の動きのように、精密で一定であることです。僕もそのコツがつかめたのは、シーズン四二勝をした昭和三十六年のこと、プロ入りから五年後のことですよ。

― その稲尾さんをもってしても、日本シリーズで長嶋さんや王さんと対戦する時は、ずいぶん悩まされたようですね。

稲尾 ええ。長嶋さんと初めて対戦したのは、逆転優勝したあの日本シリーズでした。長嶋さんは入団一年目にして本塁打二九本、打点九二で二冠を制し、驚異的な成績で新人王になった選手です。打席に立った長嶋さんを僕はまずじっと見ました。一八・四四メートルを挟んで、投手と打者は視線をぶつけながら、相手の出方を探ります。データにもとづいた知識は多いにこしたことはありませんが、実際の対戦では知識の中に答えはありません。どう打ち取るかを、打者の視線が発する意図から読み取るのが、僕の投球哲学です。しかし、長嶋さんからは何も手がかりが得られない。どんな球を待っているのか、気配が伝わってこないのです。ただただ得体の知れない打者でした。

― 気配を感じさせない術を身につけていたのでしょうか。

稲尾 もともと考えていない、彼は本能的に無であったと思うのです。相手が無であるのに、こちらが有では敵いません。案の定初対戦では、僕の最高の決め球をヒットされ、これまで味わったことのない恐怖を覚えました。これでは駄目だと、こちらも無心になって、ノーサインで投げることに決めたのが、第四戦からでした。

― 一方、一本足打法の王さんと初めて対戦された時はいかがでしたか。

稲尾 ポイントは彼のタイミングをどうずらすかでした。でも方法が分からない。試合前にたまたま入手した彼の打撃ビデオを見たとき、僕はあることに気付きました。普通打者の視線は投手の目を見て、そしてボールを追いかけます。しかし、彼の場合は違った。目線が一瞬下がるのです。王は投手の足を見ていました。どんな投げ方をしても投手は足を地に付けてから球を放すまでのタイミングは変えられません。軌道修正ができないのです。彼はそこに目を付けていました。そこで私は、上げた左足を下ろすまさにその瞬間にタメを作る二段モーションで、彼の重心をぶらす秘策を対戦前夜に練り、彼に挑みました。

― 結果はいかがでしたか。

稲尾 初戦彼は無安打。対戦した四試合で内野安打一つしか打たれませんでした。しかし、彼が世界の王たる所以は、どんなに打てなくても、このシリーズで一本足打法を貫き通したところです。

組織内の競争原理が強さの条件

― 西鉄ライオンズは、個性的な選手が多く、 ”野武士集団“と呼ばれました。管理野球とは対局にある自由奔放な集団が魅惑的に映りましたが、現役引退後監督、コーチを歴任された稲尾さんは、組織とはどうあるべきだとお考えですか。

稲尾 団体競技では、チームワークとは何かが問われます。選手同士が傷を舐め合い慰め合って、仲良く手を取り合うと言えば、見た目は美しいかもしれませんが、こうした組織は実に弱い。チームの気持ちのスタート地点がマイナスですよね。負けを前提にしている組織ですよ。

― 選手同士が互いに保険を掛けているようなものですね。

稲尾 そう。では、強い組織の要素とは何かといったら、同じチーム内でどれだけ競争できるかです。競争することで個々の技術レベルが上がります。総体としてのチーム力も上がります。ただし欠くべからざる条件があります。チームがただ一つの目的に向かっていることです。

― すなわち、「勝つ」ということですね。

稲尾 ええ。「勝つ」という唯一の目的のために、「あいつよりうまくなろう」と選手同士が切磋琢磨し合うことで、組織は強くなるわけです。

― 西鉄もそんな集団だったと。

稲尾 僕はあれほどまとまりのないチームを知りませんよ。豊田泰光さんと中西太さんなど典型です。普段はいがみ合っているようにしか見えない。しかし、本当のライバルとは何か、本当のチームワークとは何かを教えてくれたのは、お二人でした。他の選手たちもそうです。チームの中で「スキあらば斬らん」の競争です。練習が終って飲みに行くのさえバラバラです。しかし、ひとたび試合となると、がっちり一枚岩になって、無類の強さを発揮していました。それが当時の西鉄です。

― 選手一人ひとりが、自分がライバルより優れているのは何か、反対に劣っているのは何か、より真剣に考えるようになるでしょうね。

稲尾 だから自分から考えて練習するのです。同じ西鉄に西村貞郎さんという投手がいました。西村さんの投げるドロップ(大きく縦に割れるカーブ)を自分も覚えたいと思い、投げ方を教えてもらいに行きました。すると西村さんは「いくら出す」と僕に向かって手を出すのです。「お金要るんですか」。「当たり前じゃないか。俺がこれを覚えるためにどれだけ投資したと思っているんだ」とこうです。同じチームであっても、誰も教えてくれない。自分で盗むしかないわけです。

― 求めて自己研鑽するか否かが組織全体の強さを決めるのは、一般の社会にもあてはまることです。

稲尾 家庭や学校の教育の環境が変わったせいでしょうか。課題を与えてあげないと、自分からは何もできない人が多くなっているようです。また、個性の尊重と一方で言いながら、他方では形式的な平等に固執する教育環境もあります。個性も平等も形式論になっている気がしてなりません。

選手の性格まで知り尽くしていた
三原監督


― 個性的で自主的な選手が烏合の衆にならずに強さを発揮したのは、チームをまとめていた三原監督の力ですか。

稲尾 その通りだと思います。三原さんは「三原マジック」と言われるように、誰も想像もつかない選手起用や戦略をやった人ですが、裏返せば、三原さんが選手個々の性格を非常によく把握していたからこそ、傍から見ると信じがたい戦略が可能だったのだと思います。
 例えばレギュラーに故障者が出て、若い選手を使ったとします。起用が奏功し、彼は三打席連続ヒットの大活躍です。終盤一点を争う試合展開で、チャンスが訪れた時、彼に四回目の打席が回ってきたら、三原さんは迷わず代打を送りました。

― 普通なら、その勢いを買い、彼に託すところですね。

稲尾 もちろん周りも何故だと思います。ところが三原さんは、三本のヒットは、プレッシャーのかからない場面だったことに着目しています。自分の一打で試合が決まるという状況では、彼は性格的に力む、気後れすると知っていました。ですから、一打に賭ける打者を代打に送るわけです。

― 代打を送られた本人は腐りませんか。

稲尾 若い選手はそう思ってもおかしくないですが、代打が結果を出し、チームが勝てば異存はありません。今も昔も、結果を導き出せる指導者は選手にとっては絶対です。

― 三原さんは、選手にとって居丈高な監督ではなかったのですね。

稲尾 怒鳴ったり殴ったりする人ではありませんでした。ただし、コンディションの自己管理ができない選手に対しては厳格でした。昔はドームなどなく、屋外球場ばかりです。試合の前日が土砂降りなら、明日は中止だと選手は高を括り、酒を飲み過ぎることがよくありました。ところが、翌日になると嘘のように晴天です。こんな時、二日酔いのままグラウンドに行ったりすると、三原さんは厳しかったですね。酒臭い息でもしていようものなら、「今日は帰りなさい」のひと言です。

― 試合には絶対に使わないわけですね。

稲尾 ある選手は遠征時に飲み過ぎて、三原さんから「帰りなさい」と言われ、宿舎に戻っていました。ゲームを終えた監督が宿舎でその選手の姿を認め、「帰れといったのは国へ帰れということだ」とどやしつけられ、本当に国へ返されたこともあります。とにかくグラウンドにベストのコンディションで出てこない奴には厳しかったですね。それ以外は、酒を飲むなと言うわけでもなし、門限があるわけでもなし、全部選手の自己管理に任せていました。

― 稲尾さんは二日酔いで試合を迎えたことはなかったのですか。

稲尾 若い時は、飲み過ぎたこともありましたよ。ただ、朝起きて合羽を着て走り込み、汗と一緒に前夜のアルコールを全部出して、グラウンドにいきました。

― 選手の自己管理に任せながらも、選手個々の特性をよく知り、適材適所で起用できれば、選手のモチベーションも上がるでしょうし、やはり組織として強いでしょうね。

稲尾 「投げたい」という気持ちに自然にさせてくれる監督でした。「投げたい」気持ちに乗せられて投げるから、結果も自ずと出せるわけです。

不安との戦いが人を成長させる

― ご自身が監督になられた時は、選手に三原流の指導は通じましたか。

稲尾 その頃の選手は、すでに戦後の生まれで、戦後の教育で育っています。すべて三原流ではいけません。僕もケースごとに使い分けていましたし、今の監督もそうではないでしょうか。西鉄時代を彷彿させる ”野武士“と言ったら、落合博満か村田兆治くらいですかね。

― プロ野球界でも生来の一流選手と努力してレギュラーになる人といると思います。もう一歩でレギュラーを掴めるという選手には、指導者は何を教えていくのですか。

稲尾 時間が掛かっても実戦で使おうと考えている選手には、「小さなことに成功があることを知れ」と言います。結果を出すためには、そのプロセスとして、小さな努力の累積がなくてはいけません。

― 勝負の世界ですから、場合によっては、努力がそのまま結果に結びつかないこともありますよね。

稲尾 一〇〇%の力を出しても負けは負けです。しかし、その失敗から選手は学ばなければいけない。失敗が自分の責任であると認めることで、次のステップが見えてきます。

― 華やかな世界に見えても、選手は毎日ストレスや不安の中にいるものなのですね。

稲尾 完璧な投球をして、勝つことができても、その喜びに浸れるのは試合後数時間です。床についたら次の登板のことが不安になり始めます。次は打たれるんじゃないか。その不安を押しやるために、翌日からまた走り、投げて汗を流すわけです。
 不安の頂点は次の試合のマウンドに立ってプレーボールの声が掛かった瞬間です。そこで一球を投じて初めて、数日来の不安が嘘のように引いていきます。しかし、その不安がなかったら、人は伸びない。不安や緊張があって、これと戦い続けるから、人は成長できるのでしょう。

― 経営や会社の組織のあり方にもたいへん参考になるお話を頂戴しました。本日はありがとうございました。


  




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