| |
2008年3月号 No.716 |
| 与えられた舞台で
120%の努力をした者に
可能性は開かれる
「今の自分は本当の自分ではない」と言いながら、現状への不満ばかりを並べ立て、自らの運命を切り開くための一歩を踏み出さない者が、近ごろ多くなりはしないか。「自分探し」という言葉も、どこか空々しい言い訳に聞こえる。
東京大学法学部教授の蒲島郁夫氏は、高校時代まで落ちこぼれだったという。しかし、ひとつの夢を抱いて渡米した先で、自身の可能性を広げていった。
自分の人生を掴むために必要なこととは、果たして何なのだろうか。
幼いころから抱いていた三つの夢
― 蒲島先生は、かなり異色の経歴をお持ちと伺っています。今日は、どんな経緯で先生が政治学を志し、現在に至ったのか。そんなお話をお聞きできたらと思います。
蒲島 私は熊本県の田舎の出身です。昭和二二年生まれのいわゆる団塊の世代ですから、同級生はとても多かったですね。高校は県立鹿本高校という田舎の小さな学校に行きまして、卒業時の席次は二五〇人中二〇〇番台でした。本当に成績も悪く、行儀もよくありませんでしたから、卒業後に親が先生から呼び出され「このままいくと彼は不良になります」と言われたほどです。
― 高校卒業後は何をなさろうと思われたのですか。
蒲島 家が貧乏でしたから、私の成績がたとえよかったとしても大学に行く余裕はありませんでした。そこで、地元の稲田村農協に勤めました。収穫時期になると、六十キロの米袋を倉庫まで担いで運んでいましたから、今もって足腰は丈夫ですよ。でも、二年勤めてちょうど二十歳のとき、自分はこのままでいいのだろうかと考え始め、農協を辞めることにしました。
― 次に何をなさるか当てがあったのですか。
蒲島 私には小さいときから三つの夢がありました。一つは小説家になること。次に政治を勉強し、政治家になりたいという夢です。もう一つは、阿蘇山の麓の大平原で牛を飼いたい、そう考えていました。一番達成可能な夢は、牛飼いになることでしたが、自分には資金もなければノウハウもありません。当時農家の青年をアメリカに派遣し、実習させる制度がありましたから、これに応募しアメリカで牛飼いのノウハウを身に着けようと考えました。幸いなことに、定員一八〇人の研修生に選ばれ、アメリカに渡りました。
― 英語は大丈夫だったのですか。
蒲島 もちろんできません。まずシアトルに着いて、そこから車で三時間ほどのところにあるワシントン州のモーゼスレイク短大で、一カ月英語の勉強をしました。話せるようにならないと生きていけませんから、皆必死で勉強しました。そこで分かったのは、語学の上達は学力とは関係ないということです。高学歴でない人の方が、余計なことを考えませんから話すのが上手になりますよ。
その後オレゴン州のリンゴ園に行ってリンゴ収穫の研修をしました。農家の生まれでしたが、農業の経験はあまりなく、私は他の研修生と比べて作業が遅かったですね。ただし、仕事をしながら英語でコミュニケーションをしますから、ずいぶん話せるようになったと思います。今考えてみると、会話していたのは、メキシコからの不法労働者でしたから、あまり立派な英語ではなかったかもしれませんが。
初めて知った勉強の楽しさ
― リンゴ園での研修を終えて、いよいよ牧場の研修が始まったわけですね。
蒲島 いったんモーゼスレイク短大に戻り、さらに一月半ほど英語を勉強してから牧場の実習に向かいました。正月二日のことです。実習先のアイダホの牧場は一面の雪原の中にありました。初日こそ、広大な敷地の牧場に感動しましたが、それからが大変でした。朝早く起きて、日が暮れるまでブリザードの中を働く日が続きました。長靴を履いた足元はぬかるみ、牛の糞尿にまみれながら、牛の世話をしました。実習生といっても奴隷のように働かされます。遊びに出かける街もありません。農業とは何と辛いものかと思いましたが、逃げ出すわけにもいきません。
そんな生活が一年近く続いた後、私にとってたいへん幸運な出来事がありました。農業研修生は三カ月間だけネブラスカ大学農学部で研修を受けることができるのです。高校卒業まで一度も勉強したことがなかった私ですが、牧場の重労働に比べたら、勉強はなんて楽なんだろう、しみじみそう思いました。人生で初めて勉強の楽しさを知った私は、もっと勉強をするために大学に行きたくなりました。研修が終わるころ、研修担当のクリントン・フーバーさんに、もう一度ネブラスカ大学に通いたいと相談したところ、気のいいフーバーさんは、「お前は成績もいいから、来年帰ってきたら次年度の生徒の通訳として雇ってあげる。その間に入学試験を受けてみたらどうだ」そう言ってくれました。
― 蒲島先生にとって運命の転機でしたね。
蒲島 そうなんです。農業を志してアメリカに来たものの絶望の淵にあった私に、一筋の光が見えたようでした。ただし、アメリカに戻ってもう一度ネブラスカ大学で学ぶためには、三つの困難がありました。
― たとえばお金のことですか。
蒲島 そう。日本に帰国後、再渡米する旅費をどうするかが一つ目の困難でした。当時は、片道だけで三五万円掛かりましたから、これを何とかしなくてはなりません。第二の困難は、結婚を約束していた女性がいたことです。再度アメリカに行くとなれば、二人の間に別れの危機が訪れるかもしれません。三番目はそもそも入試に合格できるかということでした。
― どうなされたのですか。
蒲島 お金については、義兄が名古屋で牛乳配達店をしていましたから、そこで半年間働かせてもらい旅費を工面しました。結婚を約束した女性には、アメリカで生活が落ち着いたら呼ぶからとにかく待ってくれと説得しました。こうしてなんとか問題を整理して、昭和四六年に再びアメリカに旅立ちました。旅費を払った後に残ったお金は、わずか五十ドルでした。
― なんとも心細い話ですね。
蒲島 当時、ドルをアメリカに持っていくためには、日銀の許可が要りました。名古屋日銀支店に行き、五十ドルを持ち出しますと申請したところ、窓口担当者にも驚かれました。「三千ドルまで持っていけますよ」と言うわけです。でも、そんなお金があるはずもありません。まさに片道切符での渡米でした。
勉強とは知的忍耐力をつけること
― 残すは大学入試だけですね。
蒲島 入試は、高校の成績証明書と推薦状のほかに、SATといって英語と数学の試験が課せられます。本場の英語の試験は難しいですから、数学で点数を稼がないといけないのですが、高校で落ちこぼれだった私は、数学も大の苦手でした。当然試験は不合格です。世の中とはうまくいかないものです。片道切符で渡米して、恋人も日本に残したままです。
― さすがに途方にくれたのではないですか。
蒲島 ええ。しかし、大学で私が通訳についていたハドソン先生が、路頭に迷っている私を見かね、「蒲島はとてもやる気のある男だから、チャンスを与えてやってくれ」と入試担当者に掛け合ってくださったのです。結局、仮入学させてもらえることになりました。
仮入学といえども、入ってしまえばこちらのものです。それからの私は、死に物狂いで勉強しました。アルバイトをしながら、起きている他の時間はすべて勉強に費やしました。不思議なものです。分からないと思っていた数学も必死でやるとできるようになるのです。一学期の成績は、ストレートA(すべて優)で、三五〇人の入学者の十指に入ることができ、特待生に選ばれました。特待生は、授業料が免除され、一年生時から指導教授のもとで研究ができます。奨学金も新たに付きました。
早速私は恋人を日本から呼び、結婚しました。同級生の中で、一年生のとき結婚したのは、私だけだったのではないでしょうか。
― ご結婚されてからの生活に変化はありましたか。
蒲島 二人の暮らしを支えるために、アルバイトにも精を出しました。勉強も、一学期の成績を絶対に下げないよう、一層励みました。A評価をもらうためには、試験で九〇点以上取らなくてはなりませんが、そのためには、一〇〇%の努力をしても駄目で、一二〇%の努力が必要です。勉強をするというのは、つまり知的忍耐力をつけることであると、あのとき私は学びました。東大の学生を見ていてもそう感じますが、彼らが優れているとしたら、それは知的忍耐力が高いことです。
― 大学卒業後は、どうされるおつもりだったのですか。
蒲島 指導教授は研究室に残らないかと言ってくれました。共同で研究していた成果をまとめた論文「豚の精子の保存方法」が、有名な畜産学の雑誌に掲載され、教授もこれを高く評価してくれたのです。教授自ら誘ってくださることは稀なケースでしたので、驚くと同時に大変感激しました。そして、学問を職業として生きることも可能なのだと、私はここで気づいたのです。
農学から一転政治学へ
― なけなしのお金で再渡米した蒲島さんにとって、これ以上ない申し出だったでしょうね。
蒲島 確かにそうです。けれども、今後もずっと研究室で顕微鏡を覗くことが、果たして自分の人生だろうか、そんな疑問も私の中にありました。そして、昔の夢がまた頭をもたげてきたのです。自分は政治の勉強をしたい、そう強く思いました。
当時すでに二人の娘に恵まれていましたから、あのまま繁殖生理学の勉強を続ければ、奨学金も保証してくれますし、生活は楽だったと思います。しかし私は、どうしても夢に向かって一歩を踏み出したくて、ハーバードに行こうと決心をします。
― そこでハーバードが選択肢になることが、並の人とは違います。
蒲島 ずいぶん突拍子もない話だと自分でも思います。高名な私立大学ですから、学生は皆裕福で出自の立派な家の子息です。私はといえば、小作農の子で、おまけに妻と子供が二人いて奨学金がなければ勉強できません。試験の成績がよかったとはいえ、ハーバードに入れたのは、私を研究室に誘ってくれた教授が立派な推薦状を書いてくださったお陰です。めでたく政治経済学コースへの入学を許された私は、家族とともにオンボロ車でネブラスカからボストンに向かいました。
― 蒲島さんの目に映ったハーバードはどんな大学でしたか。
蒲島 学生は皆頭がよさそうに見えましたし、そもそも政治学や経済学を一度も学んだことのない私が、ここで本当にやっていけるのだろうかと不安になりました。でも、政治学を学ぶことは私の夢です。まず、学部の授業の履修から始め、一年半後には博士論文を書く許可を得るための試験をパスしました。ところが、そのとき奨学金の期限が迫っていたのです。
― 奨学金が無くなれば、勉強にも生活にも窮しますね。
蒲島 そうなんです。奨学金は家族を養う分まで支給されませんから、私はハーバードに入った後もアルバイトをしていました。クラスメイトからはそんなことをしていたら授業についていけないと言われましたが、生活がかかっているのだから仕方ありません。妻はベビーシッターをし、私は日本人観光客相手にガイドをして生活費を稼ぎました。もうひとつやっていたアルバイトが、使用済み切手の販売です。アメリカには進駐軍が日本から持ち帰った日本の切手が数多くあり、ボストンの切手ショーでも販売されていました。私は、妻が日本で勤めていたときの退職金を元手に切手を仕入れ、日本のオークションに出しました。円が変動為替制になり、急激に円高が進行していた時代でしたから、レートの変動にあやかって、高く売ることができたのです。一ドルで買った切手が十六万円で売れたこともありました。
― それでも、家族を支えながら勉強を続けるには心もとないですね。
蒲島 ええ。駐日大使退任後ハーバード大学日本研究所長を勤めていたライシャワー先生からアジア研究所のクレーク教授を紹介いただき、相談したころ、ジュニア・フェロー(契約教員)として奨学金をもらえることになりました。私の指導教授であるシドニー・バーバー教授、それからライシャワー教授、そして『文明の衝突』で有名な政治学者ハンティントン教授が揃って「蒲島には奨学金を渡すべきだ」とクレーク教授に言ってくださったそうです。ほんとうにうれしかったですね。その後も安心して研究を続けることができ、通常博士論文を書くのに五、六年掛かると言われているハーバードで、入学後三年九カ月で博士論文を書き上げることができました。
異例の人事で東大教授に
― そうそうたる政治学者から高い評価を受けていたのですね。
蒲島 ありがたいことです。ハンティントン教授は、学生にとても厳しいことで知られる人ですが、私の研究を激賞してくれました。これは博士論文を仕上げるうえでも、大きな自信になりました。
― その研究とは、どんな内容だったのですか。
蒲島 経済発展を果たしながらその成果を農村部に惜しげもなく再分配し、なおかつ民主的な政治参加を推進することは可能だとしたものです。日本を例にしたこの「調和の理論」は、ハンティントン教授の理論と対立するものだったのですが、教授は認めてくれたのです。後に私の論文は、ハンティントン教授の授業において必読文献になったようです。
― 帰国後は筑波大学にお勤めになられていますね。
蒲島 はい。筑波大学では、専任講師から教授まで十七年の間、とても素晴らしい環境の中で研究に打ち込むことができました。
― 東大にはどんな経緯で移られたのですか。
蒲島 後に東大総長になられた佐々木毅教授にお誘いいただきました。東大法学部の教授は、東大法学部出身者がほとんどですから、とても稀な人事です。ところが、家族は反対しました。「お父さんは東大には向いていない。筑波大学で幸せなのだからいいじゃない」と妻も娘も口を揃えて言うのです。
― それでもチャレンジするのが、蒲島先生らしいですね。
蒲島 家族ばかりでなく、世間も驚かせたみたいです。当時の読売新聞社会面で「農協職員から東大法学部教授へ。精子から政治へ」と五段抜きの大見出しで記事になりました。
― 東大で授業を受け持った感想はいかがでしたか。
蒲島 皆一生懸命聞いてくれました。最初に受け持った政治過程論の講義を一年間終えたとき、学生たちが拍手をしてくれたのには感激しました。授業のために一二〇%準備していった甲斐がありました。先入観から傲慢さをイメージしていた東大法学部生のことを、私はこのときから好きになりました。
ゼミに参加する学生もたいへん勉強熱心ですよ。私のゼミでは学生の研究成果を出版するのですが、それが初年度以来の伝統になっています。
― 学生が優秀とはいえ、どんな指導をされているのですか。
蒲島 実は、ゼミでは一切しゃべらないのです。本当の教育とは、先生が何もしなくとも、学生たちが自主的に勉強することなのかもしれません。もちろんテーマは私が決めますが、後はゼミ長を中心に学生が議論し、自ら研究し、成果をまとめていきます。とにかく学生に参加してもらう、そして学生として生きた証を残してもらう、それがゼミでの私の教育方針です。
「期待値を超えて」という生き方
― 最近、夢を持たないあるいは語らない若者が多い気がします。次代を担う彼らに、先生はどんなメッセージを伝えたいですか。
蒲島 まず、人生の可能性は無限大であるということです。高校時代に日本の田舎の学校の落ちこぼれだった生徒が、ハーバードで博士号を取り、大学教授になるなどと誰が予想できたでしょう。
二つ目は、もし人生の可能性が無限大であるなら、自分が今逆境にあればあるほど将来が楽しみだということです。学校でも会社でも、今自分が逆境にあることを悲しむのではなく、自分はもっと飛躍できると思えれば楽しくなります。逆境は幸せの源であると思えると、ポジティブ思考で目の前の課題に向かえます。
三番目のメッセージは、「期待値を超えて」という生き方です。どんな人でも最初に与えられる舞台は、非常に小さいものです。しかも、その舞台で踊るのを見ている人は数人でしょう。けれど、自分を評価してくる人の期待値を少しでも超えると、次の舞台を誰かが必ず用意してくれます。そこでもまた、期待値を超える成果を出せば、さらに次の舞台が現れるでしょう。夢を達成するとはそういうことです。与えられた舞台を決して疎かにせず、少しだけで構わないから、自分を見てくれている人の期待値を超えることが大切です。
― 自分で汗をかき、成果を出し続けることでしか、夢を掴むことはできないということなのでしょうね。
蒲島 だからいつも一二〇%の努力をするわけです。それが可能性をより大きなものにするのです。
もう一つ付け加えるなら、夢を持って一歩踏み出すことです。夢を持っただけでは、化学反応は起きません。夢に向かって一歩踏み出し、人生の可能性を信じて、逆境をポジティブに捉え、与えられた舞台の期待値を超えていけば、やりたいことの大概は実現できるはずです。
― とても勇気づけられるお話がお聞きできました。本日はありがとうございました。 |
|