| |
2007年12月号 No.713 |
| 政治家は、国民に真実を示し、
必要な政策を説く勇気を持て(下)
九月十二日、安倍晋三首相が突然の辞任を表明したとき、官邸ではどんなドラマが繰り広げられていたのだろうか。あのタイミングで辞意を決めた本当の理由はどこにあったのだろうか。
国民もマスコミも想像を逞しくして、推論を繰り広げた。そして、今回の退陣劇では、安倍氏のリーダーとしての資質も問われた。
果たして、政治家とはどうあるべきなのか。一国の宰相とはどうあるべきなのか。内閣官房副長官として、七人の首相に仕えた石原信雄氏に、前回に続いてお聞きした。
消費税導入は
竹下総理だから実現できた
― 税のお話がでましたので、戦後初めて消費税を導入した竹下登首相についてお聞きしたいと思います。石原さんが内閣官房副長官として初めて仕えた首相が竹下さんでしたね。
石原 竹下さんは、私がお仕えした総理のなかでも、最も尊敬する人です。昔から「新税は悪税なり」といわれ、新税を導入した人は悪人扱いされますが、世の中が変われば新しい税金をつくらなければやっていけません。これは財政の常識です。戦後早い時期から、付加価値税がなければ、わが国の財政はやっていけないという議論が学者たちの間でありました。ところが、いざ実施しようとすると、受け入れてくれないわけです。大平総理も中曽根総理もこれに失敗しました。そうしたなか、竹下さんは、消費税導入にほんとうに粘り強く取り組まれ実現されました。
大蔵大臣を何遍も経験された竹下さんは、消費税なしにこの国の将来はない、どんなに非難されようと、自分の手で導入すると固く決意されていました。不人気な政策で、しかも将来必ず国民のためになる絶対に必要な政策に着手することは、政治家として非常に勇気のいることです。
― 前半の竹下政権は非常に安定していましたが、いよいよ消費税が法制化されるという段階になって、リクルート問題が起こりましたね。
石原 消費税を審議する特別委員会をつくり、委員長には金丸信さんにお願いして必勝を期したのですが、その途端あの問題が起こりました。消費税法の審議は進まず、明けても暮れてもリクルート問題の追及です。これでは消費税導入は無理かとも思いましたが、竹下総理は決してあきらめませんでした。
― 最後は大蔵大臣を兼務しましたね。
石原 リクルート事件の余波で辞任した宮沢喜一蔵相の後任は、村山達雄氏に内定していたのですが、首相が発令しませんでした。村山氏も税制のスペシャリストですが、スペシャリストであるがゆえに、大詰めに入った消費税審議で、首相と蔵相の答弁が万が一にも食い違ったらまずいと、竹下さんは判断されました。ほかの政治家にはなかなか真似のできないその執念と粘り強さが、消費税導入を実現したのでしょう。
しかし、竹下総理自身も、リクルートからの献金を処理した秘書の自殺を受け、退陣を決意されました。竹下さんは、消費税法を通した後、政治と金の問題を解決すべく政治改革のための有識者懇談会を立ち上げたところでしたから、側にいた私も辛かったですね。
マスコミには
リーダーを論ずるセンスがない
― 竹下総理退陣後の宇野宗佑総理は、誕生間もなく女性スキャンダルで集中砲火を浴びました。
石原 宇野内閣が短命だったのは、実のところ、消費税に対する不満が原因ではないでしょうか。宇野内閣が誕生する二カ月前に消費税が実施され、その負担感が国民の間で現実のものとなりましたから。女性スキャンダルをこれ幸いにと、消費税導入の恨みを晴らそうと世論が動いたのだと思います。
また、竹下内閣の折、牛肉オレンジ交渉が、アメリカとの間で最終決着しました。当然、農業団体は、自由化には大反対でした。当時の佐藤農林大臣も辛かったと思いますが、わが国の置かれた状況から考えるとやむを得なかったのでしょう。牛肉オレンジを部分的に自由化する協定に調印しました。これが農業団体の反発を買ったのです。
― 農業団体は、自民党の大きな支持基盤ですからね。しかし、日本の社会は、政治家の異性問題について、異常にヒステリックに過ぎる気がしますが。
石原 確かに、フランスなどでは、男女関係は政治の世界とは別だと割り切っています。日本でも総理に女性関係がなかったとはいいませんが、昔はそれが政局にはなりませんでした。政治と個人生活をない交ぜにして、政府の最高責任者たる総理に、あらゆる面でパーフェクトであることを、いつしかマスコミも求めるようになりました。政局を論じるスケールが小さくなりましたよ。
― そこに確たるリーダー論は不在ですね。
石原 マスコミにリーダーを論じるセンスがないのでしょう。どこから突かれても何も問題の出ない無難な人が、政治の責任者になり得るという状況になると、政治の活力はなくなります。人間さまざまな欠陥があるものです。もちろん、法に反することは絶対に許されませんし、男女関係にもそれなりの倫理観やルールがなければなりません。しかし、国家を背負って立つだけの力量がある人ならば、私生活のことは別のことと割り切るおおらかさも必要ですよ。
政治改革半ばで倒れた海部政権
― 続く海部俊樹首相は、若く清潔なイメージでした。
石原 海部さんにとって不幸だったことは、文部大臣の経験しかなく、いきなり総理になったことです。しかも彼は派閥の領袖ではない。相当のプレッシャーがあったと思います。国政を担う責務に加え、自民党に対しても統率力を発揮しなければならない。まだ派閥力学で政治が動いていた時代で、経世会が圧倒的な力を持っていました。小派閥出身の海部さんが、政権運営について指示できる立場にはありません。当時自民党幹事長だった小沢一郎さんの方が政治的にははるかに優位で、海部さんは、小沢さんに対して非常に遠慮していましたね。
― そこに湾岸危機が起こり、日本の国際貢献が問われました。
石原 湾岸戦争に対して、経済面の協力はとてもスムーズにいったものの、人的支援をするとなれば、自衛隊を使わざるをえません。与党は、非戦闘地域の後方支援ならば、自衛隊を使ってでも協力すべきだとの意見が主流でした。しかし、政治的にリベラルな立場だった海部さんは、自衛隊を海外に派遣するなどもってのほかという立場でした。
昭和二九年に自衛隊が出来て以来、海外への派遣の是非が問われたことは一度としてありませんでした。東西冷戦構造が終焉した結果、国際紛争に対し、わが国がどう対処するのか、その指針を初めて問われたのが、海部内閣のときでした。
― 海部さんは、与党からかなり突き上げられたのでしょうね。
石原 それはたいへんなものでした。その後、日本は、九十億ドルの資金協力支出に加え、湾岸戦争終了後、ペルシャ湾に掃海艇を派遣し、一定の成果を上げました。ですから、湾岸戦争への対処が原因で、海部さんが退陣したわけではありません。
海部さんが自らの政治生命を賭して公約したのは、政治改革です。小選挙区制を軸とする選挙制度の改革、あるいは政治資金制度の改革こそやりたかったのです。そのアウトラインが選挙制度審議会から上がってきたとき、梶山静六さんをはじめ自民党はこれを認めませんでした。国会の選挙制度委員会も、国体委員長の梶山さんの意を受けて、審議を打ち切りました。海部首相は激怒し、金丸さんにも訴えましたが、金丸さんも首を縦に振りません。最後の手段として、海部さんは解散に踏み切ろうとしましたが、これも適わず、海部総理は、自分にとって最大の政治課題を果たせないまま辞職しました。
宮沢総理と「五五年体制」の崩壊
― 宮沢喜一総理も政治改革に取り組まれましたが、公職選挙法の実現にならず、退陣となりましたね。宮沢さんといえば、経済通であり、英語も堪能で、非常にスマートなインテリという印象がありますが。
石原 ええ。たいへんクールで博学多識、永田町でも最も知的レベルの高い政治家でした。
実は宮沢さんは、もともと小選挙区制度について反対論者だったのです。しかし自民党は小沢さん、羽田孜さんなどを中心に、政治改革は前内閣からの継続課題だと主張しました。こうした声を無視するわけにはいかなかったのでしょう。
― 小沢さんらは、当時から二大政党をつくりたかったのですね。
石原 そうですね。中選挙区制度が派閥政治を温存する原因になっており、その派閥政治が政治資金のトラブルを起こす原因になっている。政治と金の問題を根本から正すためには、小選挙区制にして、政党が政策で争う選挙にすべきだというのが、その主張の趣旨です。
― 宮沢内閣が退陣した後、「五五年体制」が崩壊する形で、細川護煕内閣が成立します。日本の政治史上にとってたいへんなドラマでしたね。
石原 なんとしても小選挙区制度を実現したい小沢さんでしたが、自民党内がまとまりません。そこで、宮沢さんに直談判しました。ほんとうに政治改革をやる気があるなら、反対派の梶山幹事長を交代せよと詰め寄りました。宮沢さんがこれを断ったため、小沢さん、羽田さんらは自民党を離れました。その結果、自民党は過半数割れとなり、宮沢内閣の不信任案が可決されます。ちょうど東京サミットを控えていました。サミットを前に総理が変わるのは、国際的にもよしとせず、宮沢さんは自分の手でサミットを開催すべく国会を解散しました。
総選挙で自民党は数を増やしたものの、武村正義さんが新党さきがけを結成して自民党を離れたため、総理大臣指名選挙では細川護煕さんが総理に選ばれました。結果として、三八年ぶりに自民以外の政権が誕生しました。
― 自民党政権が変わった後も、内閣官房副長官を務められたのには、どんな経緯があったのですか。
石原 私は、宮沢さんの退陣とともに辞めるつもりでいました。しかし、自治庁で私の十年後輩にあたる武村さん(細川内閣官房長官)が、「大連合のこの政権には、官邸の経験者がなく、内閣の運営が非常に不安です。内閣が軌道に乗るまで手伝ってくれませんか」と言うのです。私は嫌だと言いましたが、次に彼は、宮沢内閣の副総理だった後藤田さんを通して説得してきました。後藤田さんに「細川内閣の最重要課題である政治改革の中心は選挙制度の改革です。これは自治省の所管ですから、あなたの専門ではないですか。選挙制度が通るまで協力してくれないか」と電話をいただきました。宮沢さんも、ご自分が選挙制度改革を果たせなかった思いがあったのでしょう。「お国のためなのだから手伝ったらどうかね」そう諭されました。それで残ることにしたのです。
小選挙区制を実現した細川連立政権
― 細川政権では、突如として国民福祉税構想が打ち出されました。
石原 細川内閣は、平成五年の八月にスタートし、翌年二月十一日に、クリントン大統領との日米首脳会談を控えていました。主要議題は、日本の景気対策です。アメリカが要求する内需拡大を実現するためには、大規模な所得税減税が必要でした。しかし大蔵省は、一方的に所得税を減税すれば、財政がもたないと反対しました。所得税減税を約束するなら、それに見合う分だけ消費税率を六%に上げることを要請します。同じころ、厚生省が児童福祉政策「エンゼルプラン」を発表したことから、連立与党の責任者だった小沢さんは、社会福祉充実のためには財源が必要と判断し、一度に消費税率を七%に上げることを提案し、大蔵省もこれに乗りました。渡米直前で細川総理は、こうした経過を詳しく聞かされたわけではなく、結論の部分だけを聞いて会見に臨んだというのが実情です。
― あの唐突な会見で、細川政権のほころびが始まったように思いました。ところで、佐川急便事件はその後に表面化したのですか。
石原 国民福祉税の構想以前からくすぶっていました。結局、この問題が、細川政権の命取りになりました。細川さんが熊本県知事になるときの選挙資金を、佐川急便が寄付したらしいのですが、かなり古い話で、しかも法律論になるような問題ではありません。細川さんも「一億円の献金は、確かにもらったが、軽率なことだった」と、すべてを明確にして謝れば、あれほど大きな問題にならなかったでしょう。ところが、細川さんは、「借りて返した」とおっしゃり、その立証が困難を極め、結局窮地に追い詰められてしまいました。
― とはいえ、細川内閣では選挙制度改革が成し遂げられました。
石原 ええ。内閣が出した原案は、選挙制度審議会が出した案より、かなり比例区にウエイトを置いていました。審議会の答申は、小選挙区三〇〇、比例二〇〇の計五〇〇でしたが、細川内閣の原案は、二五〇・二五〇でした。一方の自民党案は、審議会の答申に近い案でした。国会では、両案とも否決されることになり、衆参両院協議会に持ち込まれ、そこで小沢さんが「自民党の案をそっくり呑む」という極めて大胆な妥協案を出します。それが小選挙区三〇〇、比例一七一という現在の数字です。
― 自民党もまさか自分たちの案を与党が呑むとは思っていなかったでしょうね。
石原 自民党は、単なる抵抗勢力といわれるのが嫌で、与党への対抗策として法案を出したわけです。それが丸呑みされて、選挙制度改革は嫌だとはいえなくなったのです。
細川内閣は、戦後最大の選挙制度改革をやったという意味で、一定の役目を果たしたと思っています。
絶対的少数で船出した羽田内閣
― 次の羽田内閣は、なぜあれほど短命だったのでしょうか。
石原 最大の理由は、連立与党から社会党が抜けたことです。羽田内閣がスタートする際、小沢さんが連立与党のなかの国会内会派を再編成しようとしました。当時、連立与党の最大会派は社会党です。当然、国会運営のキャスティングボードは社会党が握ります。国会運営を社会党に邪魔されたくないと小沢さんは、社会党を除く連立与党の会派を一本にしようと計画しました。ところが、組み換えの過程で、小沢さんの意図が社会党党首の村山富市さんに正確に伝わらず、社会党にとっては寝耳に水の状況で、統一会派についての記者発表となりました。社会党内は大揉めです。結局、首班指名で羽田さんが選ばれた後、社会党は政権を離脱することになりました。羽田政権は、絶対少数内閣です。いつ倒れてもおかしくない状況でスタートせざるをえなかったのです。
― 二カ月後、自民党が内閣不信任案を提出しますね。
石原 これにどう対応するか、羽田さんは解散、小沢さんは総辞職と意見が分かれ、二人の間でかなり議論した結果、総辞職となったようです。お二人とも、その段階で社会党と自民党が組むとは想定していなかったのではないでしょうか。
一国のトップとしての責任を
まっとうした村山首相
― 村山さんが首班指名に出て、これを自民党が後押しすると知ったときには、驚いたでしょうね。
石原 そこで小沢さんは、自民党にいた海部さんを引き抜き、羽田さんではなく海部さんを首班選挙に出すことで、自民党を割ろうとしました。
― しかし、結果的に村山内閣が誕生します。
石原 まさに政治はドラマですよ。現実は、ドラマ以上のドラマです。
― 村山政権について、石原さんはどういう感想をお持ちですか。
石原 私が歴代総理に仕えている間一刻も早く成立してほしいと願っていた区割法案、年金法案、消費税法改正法案、自衛隊法の一部改正法案などが、平成六年秋の臨時国会ですべて成立しています。村山さんは自民党と連立して内閣を預かった以上、社会党としての立場よりも、政府の責任者として国をどうするべきかという視点で、常に行動していました。国会で与野党が対立していたがゆえに成立しなかった法案を、村山内閣は次々に処理しました。たいへんな功績であると私は思います。
― 村山さんが安全保障条約を堅持するとおっしゃったのには、驚いた人も多かったと思います。皮肉なことに、それが社会党の衰退につながりましたね。
石原 社会党は今までの主張の根拠を失いましたからね。お気の毒に村山さんは、社会党衰退の責任を問われる立場になりましたが、国の現実に沿って総理としての責任を果たしたことは事実です。村山さんは、政治家として悔いていないはずです。
― それぞれの総理が、信念と哲学に基づき行動されていたのですね。
石原さんは、これから日本の社会がよくなるために何が必要だとお考えになりますか。
石原 財政について触れた際に申し上げましたが、間違った常識、思い込みを変えなければなりません。税負担よりも享受している行政サービスが格段に高いということ。そのギャップを埋めるためには、増税しかないということ。これを主張する政治家もマスコミもいないということは、非常に不幸ですね。
― 大衆に媚びてしまっているのですね。
石原 真実に基づいて必要な政治を行うという勇気、それを要求する良識、それを受け入れる良識、それがなければこの国はよくなりません。今のように誤魔化しばかりしていたら、この国はよくなりません。そうした社会のあり方が、教育にも響いているのではないでしょうか。
― たとえ嫌なことであっても、真実に目を向け、議論を重ねていくことが重要ですね。本日は長い時間ありがとうございました。
|
|