CCI

   2007年11月号 No.712




新世紀への提言




石原 信雄
(元・内閣官房副長官)
 1926年群馬県生まれ。東京大学法学部政治学科卒業後、52年自治庁入庁。官房審議官、税務局長、大臣官房長、財政局長、事務次官を歴任。86年(財)地方自治情報センター理事を経て、翌年11月内閣官房副長官に就任。95年2月退任。2000年勲一等旭日大綬章受章。現在、(財)地方自治研究機構会長、「国家安全保障に関する官邸機能強化会議」委員(座長)、「災害救援ボランティア推進委員会」会長。
 著書に『現代地方財政運営論』『地方財政法逐条解説』『地方交付税逐条解説』(ぎょうせい)『官邸2668日―政策決定の舞台裏』(日本放送出版協会)『首相官邸の決断―内閣官房副長官石原信雄の2600日』(中公文庫)『まあ、いろいろありまして』『市町村合併成功の秘訣―地方分権の更なる前進のために』(日本法制学界)『官かくあるべし―7人の首相に仕えて』(小学館)など。
  

  


政治家は、国民に真実を示し、
必要な政策を説く勇気を持て(上)


 発足から一年を経ず突然の辞任となった安倍晋三首相は、初めての戦後生まれの首相として当初注目を浴び、戦後レジームからの脱却を政策の柱の一つとしていた。
 ところで、我々が歩んできた戦後は、どんな時代であったのだろうか。自治庁事務次官まで務めた後、内閣官房副長官として、竹下総理から村山総理まで七人の首相に仕えた石原信雄氏にお聞きした。
 石原氏は、その職を辞して今、日本という国にいかなる危機感を抱くのか、この国の行く末について何を思うのか。今号と次号、二回にわたりインタビューをお届けする。


一般企業の試験は面接で不採用

― 内閣官房副長官時代のお話をお聞きする前に、石原さんがどんな経緯で自治庁に入られ、どんなお仕事をされてきたかお話いただき、時の政権が抱えていた課題の背景を明らかにできたらと思います。

石原 私は、大正十五年、群馬県境町(現伊勢崎市)の農家に生まれました。子供のころのことで最も印象に残っているのは、小学校二年生のときの出来事です。陸軍大演習に向かう天皇陛下の御召列車が、赤城山の麓の東武鉄道を通ると聞き、ひと目見ようと、私は庭の胡桃の木に登りました。ところが、胡桃の木は木肌が白くて、生木と枯れ枝の区別がつきにくいのです。誤って枯れ枝に足を掛けた私は、二十メートルほど落ちました。幸い生垣がクッションになって九死に一生を得ました。

― お怪我はなかったのですか。
石原 落ちた際に頭と足をしたたか打ちました。学校へ行っても、体操の時間は見学ばかりです。頭は、ずっと霞がかかったようで、小学校を通じて成績は中以下でしたね。
 常に普通の子供として育ちましたから、役人になっても、私には自分がエリートだという意識がありませんでした。それが役人勤めのうえで幸いだったと思います。エリート意識のある人は、往々にして弱い立場の人に対する思いやりに欠けると言われますものね。

― 農家のお生まれだとおっしゃいましたが、家を継げとは言われませんでしたか。

石原 八人兄弟の長男ですから、本来なら私が継ぐべきです。中学校へ上がるとき、「農家の長男は農学校に行くべきだ」と親戚からずいぶん反対されました。しかし両親は、本人が普通科に行きたいならそれでいいと言ってくれたのです。

― 大学卒業後、民間に就職されるおつもりはなかったのですか。

石原 当時の一流企業の給料は、公務員の倍でしたからね。しかし、就職試験を受けてもすべて落ちました。
 私が就職した昭和二七年は、講和条約が発効され、日本が主権を回復した年です。そして、講和条約とときを同じくして、日本がアメリカと安全保障条約を結んだために、国内で再軍備論議、憲法論議が喧しかったころです。
 民間企業の入社試験を受けますと、どこへ行っても二つのことを聞かれます。ひとつは、自衛のための再軍備は、憲法上許されるかということです。私は馬鹿正直なものだから、大学の先生が言ったとおり、違憲であると面接官に持論を展開しました。
もうひとつの質問とは、連合国軍総司令部による共産党の非合法化は、憲法上許されるかということです。

― まるで踏み絵のようですが、それにも率直に答えられたのですね。

石原 ええ。私はノンポリでしたが、憲法が思想信条の自由を認めている限り、共産主義を信奉しているというだけで、公職から追放するのは、憲法違反であると言いました。そのせいでしょうか、どの企業でもお払い箱でした。

地方再生を担う仕事を現場で体験

― それで自治庁に入られたと。

石原 そちらの試験は合格していましたから。公務員試験に受かると、面接のために各省庁を訪ねます。今も昔も学生の間で人気があるのは、当時の名前で大蔵省、通産省です。旧内務省は、建設省や警察庁等に分かれており、地方局だったセクションは、地方自治庁としてありました。地方の幹部職員が足りない時代で、同庁では、地方の幹部職員を国家公務員試験合格者からまとめて採用していたのです。地方自治庁の採用担当課長が「やがて日本が独立を回復したら、真っ先に内務省を再構築したい。そのときの要員として君たちにぜひ入ってもらいたい」そう熱心に誘ってくださいました。また、旧制高等学校の先輩の愛知揆一さん(後の蔵相)も、「日本は地方の制度をもう一度見直さなければならない。やりがいのある仕事ができるはずだ」とアドバイスをくれ、その言葉にも励まされ、入庁を決めました。

― 最初の辞令で、どこにお勤めになったのですか。

石原 茨城県庁の総務部総務課です。都市計画や社会福祉など、県が出してくる条例案を審査する法令審査会の事務を担当しました。

― 戦後日本の経済が復興の兆しを見せるころでしょうか。

石原 朝鮮動乱による特需が去った後でしたから、どちらかというと不景気でした。地方自治体の財政も非常に厳しかった時期です。「もはや戦後ではない」と経済白書に書かれたのは、昭和三一年でしたから、私が就職した当時の日本は、戦後の混乱状態から抜け出す直前だったと思います。

― 地方はまだまだ貧しかったのですね。

石原 食糧難が完全にはなくなっていませんでした。茨城県庁時代に下宿していた家では、毎月の家賃にプラスして米五升出しなさいと言われました。米はないと言うと、米五升を闇値で換算したお金を取られました。月給六八〇〇円で下宿代と米五升の闇値分を払ったら、映画を観に行くお金も残りませんでした。ほんとうにかつかつの生活でしたね。

― 茨城県には何年いらっしゃったのですか。

石原 一年三カ月です。その後自治庁と名を改めた本庁に戻り、財政課員になりました。ちょうど戦後の地方自治制度が新しくつくられるときに帰ってきましたから、その改正作業に参画できました。自治体にとっては命綱に等しい地方交付税制度も、私が財政課の一員として起案し、決裁をもらって歩きました。財政的に貧しい地方公共団体を援助する制度は戦前からありましたが、戦後インフレの過程で破綻してしまいました。中央にも支えるだけの財源がなかったのです。
 シャウプ勧告によって、戦前の地方配付税という制度が廃止となり、財政平衡交付金という制度になりました。この制度は、仕組み自体は優れていたものの、国の財政が厳しかったために、地方への交付はかなり減額せざるを得ませんでした。昭和二四年のドッジ=ラインにより、時の政府は、徹底した歳出削減と増税の両方に取り組んでいたからです。地方への極端な交付金の削減を改めなければ、日本の地方自治体はもはや存続できない状態でした。そんな時期、財政課に戻ってきた私に、地方財政の建て直しが命ぜられました。

全国の自治体が赤字財政だった時代

― 当時は今以上に地方財政が厳しかったのですね。

石原 最近夕張市が財政再建団体になったとずいぶん話題になりましたが、あのころは全国の自治体が再建団体になりそうでした。沖縄がまだ返還される前のことですから、四六都道府県のうち三六が赤字でした。そのうちの半分が再建団体になろうというたいへんな危機です。そこで、企業や農協の再建に関する法律を調べ、赤字になった自治体を救済する法律の原案をつくりました。これがベースとなって、地方財政再建促進特別措置法ができました。

― どんな内容の法律だったのですか。

石原 まず、自治体が努力すればなんとかやっていけるところまで交付税を増やし、その後は自助努力に委ねるという法律です。大蔵省は、地方財政の赤字の原因は、放漫財政なのだから、地方は歳出を削り、増税をして自助努力すべしという立場でしたが、自治庁は違いました。そもそも地方の財政破綻は、国がインフレ対策のために地方に交付すべき金額を削ったことにあるのだから、赤字解消のためには国も応分の負担をすべきだと主張しました。大蔵省とはずいぶん揉めたものです。

― 実際に地方財政を再建する過程では、現場もずいぶん大変だったのではないですか。

石原 今でこそ、地方公務員の給与について、国家公務員並みにせよと指導していますが、今では信じられないような歳出削減のために、ボーナスを止めなさい、定期昇給も止めなさいといった議論が、普通になされていました。職員にとって当然の権利も、赤字解消が終わるまでは我慢しなさいという計画を押しつけたわけですから相当手荒なことをしたものです。
 その後昭和三一年に、私は再び地方に出て、鹿児島県で広報文書課長、続いて財政課長を務めました。当時の鹿児島県は、まさに財政再建団体でした。月給日に職員の給料が払えるかどうか分からないほど、資金繰りがきつかったですね。県の指定金庫銀行は、短期資金を提供してくれるはずなのですが、民間企業への融資を優先していましたから、銀行も資金不足でした。県が頼んでも貸してくれないわけです。頼りはもっぱら政府資金です。熊本の財務局に行って、財政投融資の資金を貸してもらうことでつないでいました。

― 資金繰りに追われる中小企業の社長さんみたいですね。

石原 まさにそうですよ。私が鹿児島県の財政課長のころは、年間の再建計画と月々の資金計画をつくり、毎月財務局へ行って説明して、財務局の承認を経て初めてお金を貸してもらえました。綱渡りですよね。現に佐賀県庁では、月給日に給料が払えずに大騒ぎしていました。県庁でもこんな状況でしたから、市町村では推して知るべしです。田舎の村長さんのなかには、持ち山を売って財政の足しにしたという話もあります。

国民は所得倍増に
明日への希望を見た


― 安全保障条約の改定は、石原さんが鹿児島から本庁に戻られてからのことですか。

石原 昭和三五年に、鹿児島から東京に帰りましたから、ちょうど安保改定の年ですね。かつての自治庁のビル(現総務省)の前を、デモ隊が国会の正門へ向けて歩くのを毎日のように見ていました。

― あの騒ぎでは、安保条約のどこに問題があり、何を改定するから反対なのだという議論が、マスメディアのなかにも、一般市民のなかにもなかったですね。反対派は教条的に「安保反対」を唱えるだけ。踏み絵のように、反対か賛成かのみを問うような風潮がありました。

石原 おっしゃるとおりですね。条約そのものがいけないのだから破棄しろという、ひどく単純化された議論だったように思います。そもそも左翼勢力は、講和条約の折、わが国が西側諸国とだけ講和を結び、東側諸国を排除したのが面白くなかったのでしょう。東大の南原総長が全面講和論を唱えたのに対し、吉田総理が曲学阿世だと批判し、単独講和に踏み切ったことが根にあります。学生運動をしている人たちのなかには、東側諸国、とりわけソ連に対して肯定的な考え方をする人が多かったですね。計画経済、社会主義経済の方が幸せだと思い込んでいる人が、かなりの数いたのでしょう。

― 個々の中身についての冷静な議論をしないまま、一種の幻想を追いかけてその検証すらしないのは、日本社会だけに特有なのでしょうか。

石原 スターリン下のソ連、毛沢東下の中国、金日成下の北朝鮮に幻想をいだき、社会主義や共産主義を礼讃したのは、今から思えば情報不足のせいでしょう。

― しかし、池田勇人内閣が所得倍増計画を打ち出すと、安保闘争の熱は知らぬ間に冷めていきました。

石原 あれも昭和三五年でしたね。具体的で分かりやすい目標を示したことが、国民に受け入れられたのです。昭和三十年代に入り、日本経済は神武景気を迎え、かなり自信をつけたものの、まだ生活の実態はよくならなかった。毎日安保闘争に明け暮れても、もたらされるものは何もなく、国民には漠とした不安がありました。安保反対論のリーダーが唱えるソ連礼賛中国礼賛に対しても、実のところ多くの人が半信半疑だったはずです。それよりも、現実の生活がまだまだ貧しかったことの方が問題だったわけです。日本経済に少しだけ明るさが見えてきたときに、所得を倍にするよと言われ、それに希望をもったのです。

バブルは過剰な国債発行が原因

― 政治の季節から経済の季節に移行したのでしょうね。

石原 岸信介内閣のときから続いた政治闘争にも厭戦気分が芽生えていました。池田内閣は、絶妙のタイミングで国民の目を経済の方へ向けましたね。この国の政治のうえでも特筆すべき出来事ではないでしょうか。

― その後は、地方財政も急速によくなっていったのでしょうか。

石原 神武景気を迎えてかなり計画に目途が立ち、所得倍増論が出ると、かなりの数の地方公共団体が赤字から脱却しました。私が鹿児島県の財政課長だった折も、最後のころは実質的な黒字が出ていました。

― GDPの統計で見ると、昭和三三年にすでに二桁の成長を示しています。日本経済がまさに急激に拡大した時代でしたね。

石原 池田内閣が所得倍増計画を発表したのも、実態経済が上向いており、計画が実現する素地があったからでしょう。

― 高度成長以降は、行政マンとしての仕事がやりやすくなりましたか。

石原 自治庁財政課から、昭和四二年に岡山県に赴任しましたが、ちょうどそのころは、日本経済は岩戸景気を迎えていました。黄金の六十年代といわれ、税収はどんどん増えていましたから、岡山県でも財政黒字をどう隠すかに気を使っていました。黒字だと分かれば、予算要求も放漫なものになりかねませんから。
 当時GDPの伸びが実質十%ですから、インフレ率を考慮すると、名目では十五ないし二十%あったと思います。

― 日本の経済が急激に成長するなか、国中が慢心するということはなかったのですか。

石原 戦後ずっと貧乏暮らしに慣れていたものですから、税収が増えても、贅沢をしようなどという気にはならなかったですね。

― 日本人は、まだまだ勤勉だったのですね。日本がおかしくなったのはいつごろからでしょう。

石原 やはり八十年代の後半、バブル経済を迎えたころですね。日本国土の土地の評価額が、アメリカ全土のそれよりも大きかったともいわれましたね。国民の気持ちもすっかり緩んでしまって、それが財政規律をなくしてしまう原因のひとつになったともいえます。何よりも、国民の心の手綱が緩んでしまいました。

― 八五年のプラザ合意において、低金利・円高政策に舵が取られ、アメリカは、日本に内需拡大を要求しました。日本は十年間で四百三十兆円規模の公共投資をしました。

石原 日本が内需拡大して、日米間の貿易格差を解消すべしというアメリカの要求はもっともなものでした。当時アメリカの最大の貿易赤字国は日本でしたから。残念だったのは、公共投資を行う際、公債を発行したことです。内需を拡大するのなら、本来増税でやるべき。そうしていたらバランスが取れたはずが、借金でやったためにバブルになりました。バブル経済の最大の理由は、歳出の増加を図ったことよりも、無制限に赤字国債を発行したことです。

増税なくして財政再建はない

― もともと過剰貯蓄が日本の貿易黒字の原因だというのが、アメリカの主張でしたから、過剰貯蓄を税で吸収すればよかったはずですね。なぜ日本はそれをできなかったのでしょうか。

石原 日本には増税に対する非常に強いアレルギーがあります。国民もマスコミも政治家も同様です。今でもそうです。私は日本経済の将来を考えるとき、いちばんの問題は、歳出規模に見合った税負担を国民にお願いする勇気を政治家が持つか否かだと思います。その勇気が持てなければ、円の暴落をはじめ、日本経済はもっと悪い結果になります。
 日本の租税負担率は、現在二十%ちょっとです。これは世界で最も低い数字です。一方、歳出はヨーロッパ並みにしています。

― 国が赤字になるのは当然ですね。

石原 そのギャップを毎年赤字国債で埋めています。かつては投資によるストックがある分だけに国債の発行を制限していたものですが、今はそうではありません。経常支出で不足する財源を毎年度借金で賄っているというのは、消費者金融ですよ。こんなことをしていたら、絶対に日本はよくなりません。日本経済はほんとうに破綻しますよ。
 戦後から今日まで政治の世界をずっと見てきましたが、国民の甘えの構造について、政治家はこれをはっきりと正す勇気をもたなければなりません。

― 確かに、日本社会のなかには増税に対するアレルギーが強いですね。百姓一揆のころからでしょうか。

石原 江戸時代には、五公五民などといわれ、国民が稼いだ所得の半分は公に出しました。私は、これがほんとうだと思います。現にヨーロッパ諸国は、ほぼ五公五民ですよ。スウェーデンなどでは、もっと税負担は高く、七公三民くらいですね。これは例外としても、わが国は社会保険料を入れても税負担は三十数%です。国民が政府から受けているサービスがGDPの五十%を超えているのに、負担の方は四十%未満で、常に十%のギャップがあるんですよ。そこを改善しない限り、財政の健全化はありません。成長政策でなんとかなる、節約すればなんとかなるとだけいうのは、誤魔化しですよ。
 経済界の皆さんも増税は嫌だから賛成はしませんが、経済全体のメカニズムからして、現在のようなトリックは長期的には続きませんよ。      (次号へつづく)


  




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