CCI

   2007年5月号 No.706




新世紀への提言




西垣 通
 (東京大学大学院情報学環教授)
 1948年東京生まれ。東京大学工学部計数工学科卒業。日立製作所、スタンフォード大学でコンピュータ・システムの研究開発にたずさわる。その後、明治大学教授を経て、現職。専攻は情報学・メディア論。  主な著書に『情報学的転回』(春秋社)、『ペシミスティック・サイボーグ』(青土社)、『IT革命』『マルチメディア』(ともに岩波新書)、『こころの情報学』(ちくま新書)、『デジタル・ナルシス』(岩波書店)、『基礎情報学』(NTT出版)、『1492年のマリア』『アメリカの階梯』(ともに講談社)などがある。

  


生命としての内なる視線から
現代消費文明を問う


 日本社会は格差社会だといわれる。現代の消費文明は、ITの発達でさらに自由競争を激化させ、適者生存の原理のもと、いかに敗者を生み出そうとも、自己責任の一言で片付けられる。そして、目先の実利を得ることに長けた者がいつも勝者になることを知りつつ、私たちはこの文明に拠って逃れることもできない。
 日本人が、まるで消費主義、快楽主義のロボットと化してしまったかのような現況は、どこに端を発しているのか、そしてこれを越える二十一世紀の知はあるのか。情報学者の西垣通氏にお聞きした。


アメリカは
ユダヤ人にとっての約束の地


― ユダヤ民族の悲劇を描いた、先生の小説『1492年のマリア』(講談社)をたいへん興味深く拝読しました。情報学がご専門の西垣先生が、小説という手法で伝えたかったこととは何なのでしょうか。

西垣 結論だけを極めて大雑把にいうと、迫害されたユダヤ人の安住の地としてアメリカが発見され、現代に至るグローバリズムの端緒となったということです。さらに、コンピュータを中心とした現代IT文明は、ユダヤ=キリスト教思想を世俗化し、唯物化し、矮小化した人間観・宇宙観と深い関係にあることを、私はあの本で伝えたかったのです。

― 十五世紀の歴史物語と、現代の文明の在りようが繋がっているわけですね。

西垣 一四九二年という年は、コロンブスがアメリカを発見した年であるとともに、スペインから異教徒が追放された年でもあります。この二つの出来事は、実はリンクしていると思うのですよ。それまで、スペインのあるイベリア半島にはさまざまな宗教をもったいろいろな民族が共存していました。ところが、この年の一月にグラナダが陥落し、イスラム教徒が駆逐されます。いわゆるレコンキスタ(国土回復)です。さらに、ユダヤ教徒も国外追放されてしまいました。一つの言語、一つの宗教(カトリック)によるスペイン王国をつくろうとしたのです。
 ユダヤ教徒たちが、無一文で国外へ追い出されるデッドラインが八月二日の深夜零時でした。コロンブスが出帆したのは八月三日の早朝です。ぴったり合致します。

― コロンブスとともに新大陸を発見したのは、スペインから追放されたユダヤ人だったわけですか。

西垣 いや、コロンブス自身がおそらくカトリックに改宗したユダヤ人だったのでしょう。彼はイタリアのジェノバの生まれですが、イタリア語のほかにスペイン語も流暢に操り、ラテン語もできたようです。貧しい水夫あがりの彼が、いつこうした教養を身につけたかというと、たぶん親から習ったのです。つまり、コロンブスの祖先は、かつてスペインから追放され、ジェノバに行き着いたユダヤ教徒だったのでないかと考えると辻褄が合います。ユダヤ人は、たいへん教育熱心な民族だからです。
 コロンブスを財政的に支援したのは改宗ユダヤ人たちでした。女王イサベルが自分の指輪を渡したといわれますが、三隻の遠洋航海費用を指輪一個で賄えるはずがありません。有力な改宗ユダヤ人たちは、キリスト教に改宗することでかろうじてスペインに残ることを許されていましたが、常に怯えていました。いつ異端審問所で拷問され、隠れユダヤ教徒だと白状させられるか分からない。拷問に耐えられずいったんそうだと認めたら、財産没収のうえ火あぶりです。ならば、コロンブスの航海を支援して、ユダヤ人の救いの地を見つけてもらおうと考えたとしても不思議はないでしょう。改宗ユダヤ人たちは、一縷の望みをコロンブスに託したにちがいありません。

― その救いの地こそアメリカだったわけですね。

西垣 はい。現在、ユダヤ系の人々が多い国といえば、イスラエルですが、次に多いのがアメリカ合衆国です。特にニューヨークには多い。医者、弁護士、学者、芸術家など知的職業についている人々には、ユダヤ系の比率が高いのです。

土着性を奪われ
普遍論理に頼ったユダヤ人


― 確かにユダヤ人は、アメリカ社会において高い地位を築いていますね。

西垣 土地を追われ、亡命していく人々にとって、頼りになるのは、学問と金融です。現金を持ち出せなくても、国際金融のネットワークシステムをつくれば、どこの土地へ行っても困ることはない。学問もそうです。普遍的な論理に基づく科学的な知識や技術に長けていれば、世界中どこへ行っても食べていけます。

― 医術もそうですね。

西垣 ええ。裏返せば、そうした時間空間を限定しない普遍的な論理に基づく思想や技術をつくりだし、身につけなければ、彼らは暮らしていけなかったわけです。
 ユダヤ人の迫害は、一度や二度ではありません。中世はもちろん、十九世紀から二十世紀のはじめにかけて、ロシアでも大規模な迫害がありました。また、ご存知のように、第二次世界大戦ではナチスに迫害されました。
 日本人はとくにローカルな土地との結びつきが強いのですが、だいたいどこの国でも、普通の人間は生まれた土地に住んで、その土地から得られる食物を食べていけば生きていけます。お金もそれほどいらない。必要なものがあれば物々交換すればいい。コミュニケーションも、その土地だけに通用する言語を使っていればいいのです。しかし、土着性を奪い取られたユダヤ民族は、生き抜くために普遍的な、モバイルな論理を頼るほかありませんでした。彼らの悲劇的な歴史が、普遍思想やグローバリゼーションを生む一因であったことは間違いありません。

― そうした普遍思想が、コンピュータの中にも流れ込んでいるというわけですね。

西垣 そうです。コンピュータというのは、計算機械というより、普遍論理機械なのです。実は『1492年のマリア』を書いたもうひとつの理由は、ライムンドゥス・ルルスという実在の人物に光を当てたかったからです。
 ルルスは、十三世紀の思想家で、もともとはマヨルカ島という、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の三宗教が入り混じった土地の有力な貴族であり騎士でしたが、その身分を捨てて布教の旅に出ます。その際、三つの宗教を包含する一種の普遍的なロジックがあるのではないかと考え、それを具現化するため「ルルスの円盤機械」というものを考案します。これは、二十世紀のコンピュータに至る記号論操作機械の原型といっていいと思います。
 しかし、ルルスは布教の最中に殺され、その業績はルネサンス魔術とともに歴史から抹殺されました。普遍論理機械の先鞭をつけたルルスの悲劇、そして彼の理想主義に惹かれ、約束の地を求めた若いユダヤ人たちの悲劇を、グローバリゼーションの寓話として描いたのが『1492年のマリア』です。コンピュータというものが、単なる道具ではなく、ある意味で人間くさい歴史のドラマとからんだ存在であることを書きたかったのです。

日本人に人工知能が
開発できなかった理由


― ユダヤ=キリスト教的な普遍論理が、コンピュータを生んだ、そう先生がお考えになったきっかけは何だったのですか。

西垣 エンジニアとしての私の個人的経験が関連しています。一九八〇年代、日本で第五世代コンピュータ開発プロジェクトが行われました。当時の通産省が企画した一大国策プロジェクトで、日本の代表的メーカーがこぞって参加しました。その頃日立製作所の研究者だった私も、一時期これに関わったのです。第五世代コンピュータは、思考するコンピュータ、つまり人工知能を実現しようとしたのです。真空管を素子として使った機械が第一世代、第二世代がトランジスタの機械、第三世代はIC(集積回路)の機械、第四世代はLSI(大型集積回路)のコンピュータです。素子の世代交代とともにスピードや信頼性が上がってきたのですが、第五世代では、素子を変えるのではなく、抜本的に違う機能を持つコンピュータをつくろうとしたのです。

― そのプロジェクトは成功したのですか。

西垣 現在ほとんど使われていませんから、結果的に失敗したのだと思います。そもそもコンピュータとは、論理回路でできた機械です。ですから、このプロジェクトで問われたのは、果たして人間というもの、あるいはその頭脳が、論理回路でできているのかということです。しかし、当時の日本の研究者は、そういう原理的な問いに答えることができませんでした。
 欧米では、この問いに肯定的な答えをする人が少なくありません。ユダヤ=キリスト教的なものの考え方が根っこにあるからです。欧米には伝統的に、自分の生活のすべてを規定するのは神の言葉、神の論理(ロゴス)である、という考え方があります。宇宙のすべてが神の論理整合的な言葉にしたがってできている。そういう信念と生活習慣、文化的な伝統に基づいて、普遍論理的な機械であるコンピュータがつくられ、その延長上に人工知能が位置づけられることになるのです。

― その発想は確かに日本人とは違いますね。

西垣 ユダヤ=キリスト教では、人間は、不完全ながら神の絶対知の一部として理性をもっていると考えます。ですから、神が世界をつくったように、人間は論理的な機械をつくることができ、やがては人工知能もつくることができると考える。彼らにとっては非常に自然なのです。

― すべてを論理回路でつくることができると。

西垣 はい。しかし、そういう信念はわれわれ日本人にはないのです。そういう原理的な問題と正面対決しなかったことが失敗の原因だと私は思うのです。技術を精密にし、改良していくことなら、日本人は長けています。しかし、原理的なことをあまり考えないという悪い癖がある。私自身は、人間の頭脳は論理回路ではないと思っています。実際、ユダヤ=キリスト教的なものの考え方は、われわれ日本人の理解を超えた不思議なものですよ。そのルーツはどこにあるのか、というのが問題意識の始まりでした。

情報とは「生物にとっての意味作用」

― 世界のすべてが論理的、演繹的にできているという世界観は、やはり私たちには理解できません。

西垣 おっしゃる通りです。たとえば、「フレーム問題」という人工知能に関する難問があります。有限の情報処理能力しかない人工知能には、現実に起こりうる問題のすべてに対処することができないという議論です。
 たとえば、人工知能に「冷蔵庫の中に水はありますか」と聞いたとします。冷蔵庫の中にミネラルウォーターがないとき、人工知能は、「はい。製氷機の下の受け皿のなかに少し溜まっています」と答えたりします。たしかにそれもH2Oですから、間違った答えだとは言えません。

― しかし、論理的演繹的には正しくても、コミュニケーションは成り立たないわけですね。

西垣 人間なら「水はないけれど、麦茶ならあります」と答えることもできます。その場その場で、問題に対する枠組み(フレーム)を形づくりながら、臨機応変に、柔軟に対応しているわけです。人間に限らず、生き物とはすべてそういうものです。

― 今後、人工知能がフレーム問題を乗り越えることは可能ですか。

西垣 非常に難しいと思います。生物ではない機械に、情報の本来の意味を理解させることはできないと思うのです。
 これは情報の本質と関わってきます。情報の本質とは、端的に「生物にとっての意味作用」です。生物が生きるうえで意味のあるもの、重要なものが「情報」にほかなりません。「意味があるもの」とは、その生物にとって「価値があるもの」のことなのです。たとえば、食べ物や異性、敵などが代表的ですね。だから情報は人間だけでなく、あらゆる生物にとって存在します。たとえばハエにとっては、この目の前の机も羽根を休める単なる休憩所です。それぞれの生物が世界を認知し、そこで生まれてくるものこそ情報なのです。
 ところが機械というのは生きていない。だから意味や価値とは無縁なわけですよ。機械は生物の動きを真似することはできても、生物そのものになることはできません。

生物は「ただ盲目的に」生きている

― 生命は、命を再生産しようという衝動があります。しかし、機械にこれをもたせることは不可能だと思います。生命と機械のいちばんの違いはそこにあると思うのですが。

西垣 その通りだと思います。人間をある入力に対して決まった出力を出す存在、つまりある「機能」をもつ存在としてだけとらえると、それは人間のロボット化につながりかねません。

― 先生の情報学では生命をどう捉えるのでしょう。

西垣 われわれ人間とは、六十兆個の細胞の塊です。細胞の一つひとつが、手探りで盲目的に生きようとしているのですよ。それらが組み合わさったシステムとして個体がある。設計図で定められた入力と出力があって、所与の機能を果たしているのではなく、一種の共生体のようなシステムなのです。情報学ではこれを「オートポイエティック・システム(自己創出系)」と呼んでいます。

― 生命は、普遍論理では説明できないということですね。

西垣 生物を研究するとき、普遍論理を持ち出すのは人間の側の都合です。その生物は「ただ生きている」だけなのですね。普遍論理で記述される「客観世界」というのは、あくまでホモ・サピエンスという特殊な生き物が生きていくための道具です。人間とその他の動植物との最大の違いは、「客観世界という虚構をつくる能力」の有無ではないでしょうか。
 たとえば、電車のなかで隣のつり革に掴まっている二人の人間は、まったく同じ景色を眺めています。そういう意味では客観世界の中に住んでいるように見えるかもしれない。でも実は、同じ景色を見ても、思い出すものはそれぞれ全然違うでしょう。過去の体験が違うからです。つまり、われわれは一人一人、まったく違う主観的な世界に住んでいるのです。客観世界というのは、それらを抽象した存在で、一種の虚構なのです。
 もちろん、客観世界を頭から否定するのは誤りですが、これが虚構であることを忘れ、唯一の実体と信じて突き進むと、人間を含めてあらゆる生物を機械的存在と見誤る恐れがあります。
 ITを、生命活動を抑圧しロボット化するためではなく、逆に生命力を活性化するために用いるべきだというのが、私の信念なのです。

現代消費文明を相対化するために

― つまり一神教的な普遍思想で、すべてを説明することは、すでに限界に来ているということですか。

西垣 平たくいえばそうです。

― コンピュータは、論理的に間違いをしませんが、生物はある確率で間違いをします。間違いをすることが、新しい命をつくったり、生命の多様性を生んだりします。

西垣 そうも言えますが、あまり正解と間違いとを峻別するのはまずいのではないでしょうか。誰かによってプログラムされたものが、その軌道を外したときは間違いですが、それは生物をユダヤ=キリスト教の神の目で、いわば俯瞰的、客観的に眺めているからだという気がします。
 機械の行動には正解と間違いがあります。しかし、生物というのは、反復的な機械とはちがって、繰り返しのきかない「今」を生きているわけです。われわれの父親と母親が出会ったのも偶然でしょう。みんな偶然に、この瞬間を生きているのですよ。われわれがまさに「生きている」生命環境を尊重する立場から、もう一度、世界の在り方をとらえ直すことが、私の情報学の目的なのです。

― 確かに産業革命以来、私たちは生命というより機械のようです。

西垣 私は、IT研究開発に携わってきた人間として責任を感じています。現代では、ITが「意味」をはぎ取った機械的な情報を氾濫させています。お金の流れや生活のリズムはどんどん速くなり、過当競争が起きています。しかも、競争して負けてしまうと自己責任だといわれる。これでは救いがありません。日本人はITの歴史面や思想面に無関心で、技術面とビジネス面にだけ心を奪われているので、健全なIT文明を築きつつあるとはとても言えないのです。

― その現代消費文明を、思想面で私たちは乗り越えることができますか。

西垣 普遍的なユダヤ=キリスト一神教に対して、土着の多神教的な立場から抗議しようとする人もいます。ただ、多神教は一神教より弱いのですよ。なぜなら多神教は土着のもので、明示的な普遍論理をもたないからです。一神教は啓典宗教で、聖なるテキストさえあれば、時間空間を超え、いつでもどこでも聖性が生まれます。そこが強みなのです。

― 土着の神では、その場に行かないと聖性を感じられませんからね。

西垣 そうです。土着多神教にはモバイル性がないので、狭い共同体から一歩外に出ると説得力をもたない。多神教の昔に帰れといっても、単なるノスタルジーになってしまいます。
 可能性があるとすれば、古代インド哲学から派生したヒンドゥー教や仏教かもしれませんね。仏教では、すべては縁起によって、つまり「関係性」によって生起すると説きます。これは、人間を含むすべての生物が、情報ネットワークとして生きているという事実と呼応しているのです。また、一神教ほど普遍論理に頼らないといっても経典もあるので、モバイル性においても、一神教と多神教の中間に位置しているのではないでしょうか。
 いずれにしても、大事なのは、人間も生物の一部であること、それぞれの生物がそれぞれの仕方で世界を認知しながら生きており、それが情報現象の原型であるということです。「生命としての内なる視線」を見失わないようにしたいものです。

― たいへん興味深いお話が伺えました。本日はありがとうございました。


  




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