| イラクは今、日本がどう
戦後を歩んできたかを
知りたがっている
アメリカ中間選挙における共和党の敗北により、ブッシュ大統領もイラク占領政策を転換せざるをえなくなり、イラク戦争を主導した政権幹部も更迭された。
イラク国内が今も混乱していることは、日々の報道で伝わってくる。しかし、イラク戦争とは何だったのか、その後のアメリカによる占領とは何だったのか、日本にいる我々は、いまひとつ実態が理解できない。
イラク政治が専門の酒井啓子氏に、イラクをはじめとする中東世界の現状についてお聞きした。(このインタビューは〇六年十一月に行いました)
日本人は科学的思考を養うべき
― 日本にいると、中東での出来事は、とても遠い世界で起こっているように感じがちです。日本人が中東情勢に不得手なのは、どんな理由からでしょうか。
酒井 日本と中東との関係は、アメリカやアジア諸国との関係より緊密ではありませんから、コンスタントに情報を追うほどには、日本人が中東に関心を払わないことも確かでしょう。また、中東の情勢は複雑で、かつ展開が速いため、途切れ途切れの報道では、その実情をつかみにくいことも理由にありますね。マスコミが情報を伝える場合も、背景が描ききれていません。中東情勢にそこまで割くほど紙面がないのかもしれません。
また、日本人はエピソードが好きですね。統計をとってデータを分析し解説するよりも、一人のライフストーリーをピックアップする報道が多いのも、読者や視聴者にうけるからでしょう。イラク情勢についても、特定の家庭の特定の人物を取り上げて、イラクの今を代表させるようなケースが多いように思います。しかし、まず、なぜその人をピックアップしたのかが分からない。そしてそもそも、その人のエピソードをもって、イラク情勢のすべてを代表させるのは危険なことなのです。
― 中東のように混沌とした世界を扱う場合は、ことさら慎重にデータ処理しなければなりませんね。
酒井 ええ。特定の記者なりディレクターなりの主観により、世論の流れができてしまう可能性さえありますから。
― エピソード好きの読者や視聴者に迎合する報道は、日本だけに見られる現象でしょうか。
酒井 西欧でもそうですね。ただ、日本の報道には、事件の背景の説明、統計等の裏付けがありません。たとえば、イラクでは自爆テロが多いといわれますが、件数にすれば月に一回程度です。なのに、自爆テロという狂信的な行為のインパクトのみを強調しようとします。現実には、毎日起こる事件のほとんどが銃撃戦であり、路上爆弾です。イラクの人々は、自分の命を賭してまで死を選ぶような行為を日常茶飯事にしているわけではなく、ほとんどの事件は、自分が生き延びるために綿密に計画されたゲリラ戦です。現実のイラクは、日本人のイメージどおりではない証左です。
― だから日本国内にいると、中東情勢が正確につかみづらいのかもしれません。
酒井 被害者に話を聞いて、とにかく悲惨だということを伝えるだけでは、中東はたいへんな地域だというイメージだけが、読者や視聴者に定着するのではないでしょうか。
また、日本人は映像中心主義にどっぷり浸かっていますね。映像はインパクトが強いですから、データに基づいた解説を延々とやられるより、分かったような気になります。これもとても危険なことですね。これから日本人は、科学的思考をもっと養うべきだと思います。そして、裏付けのある知識に基づいて、日本人である我々がいかに現地の役に立つことができるか考えるべきでしょう。
アメリカは日本以上に
中東に対するノウハウがない
― イラク戦争を起こしたアメリカでは、イラクや中東情勢が的確に伝わっているのでしょうか。
酒井 アメリカは日本以上に、中東に関するノウハウが薄いと思います。地理的な距離の隔たりが大きいのでしょう。これは、地中海を挟んで目と鼻の先に中東があるヨーロッパ諸国との違いです。
― 確かにヨーロッパの場合、十字軍遠征に始まり、現在の移民問題に至るまで、常に中東と接触してきましたが、日本やアメリカはその歴史の中で、中東との接触は非常に少なかったのでしょうね。
酒井 アメリカにもイスラム移民は非常にたくさんいて、ユダヤ人人口より多いといわれます。ならばイスラム研究がもっと育っていいと思います。そうならないのは、彼らの社会における影響力が、ユダヤ系の人々より小さいからでしょう。
― アメリカでは、政治でもビジネスでもその中枢にいるのは、圧倒的にユダヤ系ですものね。
ところで、二十一世紀はイスラム教文明とキリスト教文明が衝突する世紀だと説く人もいます。先生はどうお考えになりますか。
酒井 いわゆる「文明の衝突論」は、八〇年代後半にアメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンが唱えたものですが、いささか大雑把過ぎます。発表当初から学者の間では不人気でした。
その分かりやすさに飛びついたのは政治家です。米ソ冷戦が終結し、次の敵がどこにいるのかとアメリカの政治家が考え、彼らが見出したのがイスラムでありイスラム主義でした。さらに、実際に両文明の衝突を体現するような、九・一一が起こってしまいました。そして政治家自身も、ハンチントンの議論に沿ってその後の政策を実施してきました。
― アメリカという国は、そもそも外に敵を持たないと国内が治められないのではないでしょうか。
酒井 アメリカには、自分たちは自由と民主主義の旗印として世界で機能してきたという自負があるのでしょう。自由と民主主義の敵に対しては常に挑んでいく、邪悪な者と戦って世界を正しい方向に導いていくことは、そもそもアメリカの建国の理念ですからね。何もブッシュ政権の誕生やネオコンの台頭により始まったことではありません。
イラク戦争と占領は無謀な外科手術
― これからのイラクはどうなっていくとお考えですか。
酒井 アメリカがイラクの占領政策を改めていけば、多少なりとも改善する可能性はあると思います。しかし、今のままでは安定化は難しいですね。イラク人自身が、先が読めないのが現状です。一昨年ぐらいまでは、イラクはどれほど悪い状況になっても、内戦状態になることはないと、ほとんどのイラク人が思っていました。しかし、今は本格的に内戦が始まることを恐れ、イラクから国外へ逃げ出す人が数多くいます。戦争下でも国外へ逃げる人がほとんどいなかったのは、たとえ周辺国が快く受け入れてくれても、自分たちの財産や土地を捨てたくはないと考えてきたからです。アラブ世界の人々は、国境への意識、国民国家への帰属意識は高くないものの、村意識、郷土愛みたいなものは強くもっています。そんな彼らが、今自分たちの暮らしの基盤を捨てているのですから、下手をすると、現在の混乱が十年、二十年と続くかもしれません。
― アメリカのやったことは、まことに手前勝手な使命感から発したことだったということですね。
酒井 外科手術にたとえると分かりやすいと思います。アメリカはイラクに自己治癒力がないにも関わらず、後先も考えず強引に手術を行い、フセインという心臓を取り除いてしまった。しかも術後の処置も適切にしないのでは、患者が出血多量で死ぬのは当たり前です。そもそも代わりの心臓も用意していない。それで「生きろ」といわれても自助努力できるわけがありません。自己治癒力のないイラクに対し、体力を奪うような大手術をしたことは、やはり大きな間違いでした。
― 今後イラクが立ち直っていくために、国内の産業が果たす役割も大きいと思います。日本人は、イラクの産業というと、石油関連ばかりをイメージしがちですが、他にどんな産業があるのでしょうか。
酒井 あらゆる産業形態があるわけではありませんが、製造業に関しては、六〇年代、七〇年代に国が重工業を育成しました。ただしこれが南部を中心とした地域に置かれましたので、戦争の被害に遭ってまったく機能していません。
農業については、人口の四割から五割が従事しています。そもそもイラクは、メソポタミア文明が興ったチグリス・ユーフラテス川の流域にありますから、昔から農業は盛んです。ただし、南部地域はやはり戦争で農地が荒廃してしまいました。こうして農業で生計が成り立たなくなった人々が石油産業に依存しているというのが現状ですから、農業ができるようになれば、農業人口は戻ってくるでしょう。
アラブ世界の人は大のコーラ好き
― アラブ諸国の反米感情も、やはりアメリカのイラク政策によるところが大きいのですか。
酒井 はい。まずアメリカがイスラエル一辺倒で、アラブの声に耳を傾けないことに反米感情の根があります。さらに、イラク戦争を起こし、イラクを占領するに及んで、アラブの反米感情はますます高まりました。
― アメリカの文化などはとうてい受け入れられないでしょうね。
酒井 ところがそうでもありません。若者やビジネスマンを中心に、アメリカ文化にどっぷり浸かっています。もちろん、欧米型の合理主義や文化を嫌う人もいるものの、大多数の人がマクドナルドもコーラも大好きです。どんな田舎に行っても、冷たいコーラでもてなしてくれますよ。
中東から日本へ人を招くと、彼らはコーラがあまり売られていないことに不満を漏らします。「これほどグローバリゼーションに遅れた国はない」と言われました。
― 乾燥した気候が、コーラのように甘いものを欲するのですね。
酒井 ええ。とても暑いですから、エネルギーを急速に補給しなければいけないからなのでしょう。コーラは日本の三倍も甘いですし、食べ物も総じて味が濃いですね。砂糖とともに香辛料もたっぷり使います。肉料理も多いですから、日本人のお腹にはとてももたれる食事です。
― イラクなどでは、アルコールは普通に飲まれているようですが、これは国によりますか。
酒井 国として禁じているのは、イランとサウジアラビア、いくつかの湾岸諸国など保守的な国々です。イラクもシリアもエジプトも、品質のいい国産のビールやワインがありますし、とりわけ地中海東岸は、ワイン発祥の地ですから、お酒の好きな人はたくさんいますよ。
イスラムの伝統で表現する意志とは
― 国や宗教が禁じていても、これを建前として、隠れてお酒を飲む人はいるのですか。
酒井 コーランで明文化されていることは、厳格に守りますが、曖昧に書かれていることについては、いかようにも解釈するところはありますね。たとえば、私の知人のエジプト人女性は、父親が非常に熱心なイスラム主義者で、彼女自身もイスラムについて造詣が深く信仰熱心な人ですが、スカーフやベールを被りません。そもそもスカーフやベールの意味合いは、人々が女性の魅力に心を乱されて信仰心を無くさないよう身につけるものですが、見る側の人の心にベールを掛ければ、見られる側の女性が物理的に隠さなくてもいいというのが彼女の言い分です。
― 本来の趣旨が分かっていればいいということですね。ベールやスカーフを着けない女性が、増えているのでしょうか。
酒井 近代化が進んだ六〇年代、七〇年代は、被らない人が多かったのですが、今は逆に増えています。いちばん大きな理由は、女性の社会進出が進んだからです。かつて社会に出られた女性は、一部の裕福な家の娘たちでしたから、彼女たちは欧米のファッションに身を包んで当たり前でした。ところが、一般庶民の娘たちも働きに出るようになると、親は心配で仕方ありません。満員電車の中で、残業の職場で、自分の娘が男たちと関係を持つのではないかと気掛かりでならないのです。今でも女性への偏見は根強いわけです。そんな親の心配に対し、娘たちは「私は男を誘惑するために仕事に行くのではない」と意思表示し、職場では自己防衛するための手段として、ベールやスカーフを着けています。
― アメリカ的な文化に対する反発から、伝統的なイスラムの掟に従うということはありませんか。
酒井 それはヨーロッパのイスラム教徒に多いですね。フランスでは、ムスリムの女子生徒が学校にスカーフを着けて行った際、学校に宗教を持ち込んではならないとして、大問題になりました。あれはアイデンティティーの主張です。親の世代は肩身の狭い思いをして過ごしてきましたが、今に至っても、ムスリムはフランスやイギリスの社会の中で、フランス人、イギリス人として平等に扱われていません。ならば、自分たちはムスリムであることを自己主張しようと、子どもたちはイスラムの伝統を表に出しているのです。
― イスラムに限らず、自分たちが本来持っている文化に回帰しようという動きが、今世界中で見られるような気がします。日本の場合も、日本食や着物に、若い人が関心を寄せているようです。
酒井 そうかもしれません。ただし、日本が特殊なのは、どれほど欧米の文化が流行っても、次第に外の文化を日本風にアレンジすることです。このように、外の文化を自前の文化と混ぜ合わせて定着させることが、中東の場合はなかなかできません。そうした発想が中東諸国にもないし、欧米資本にもありませんから、ぶつかり方が激しくなります。
日本を判官贔屓するアラブの心理
― 日本のように、何でも溶かして消化してしまう文化ではないのですね。
酒井 中東は、ヨーロッパ文明と中国文明が行き来した場所です。違った文化をアレンジする土壌は持っているはずなのに、アメリカ文化についてだけは、今のところそのままを受け入れています。
― 人々の心の中で、反米感情とアメリカ文化への憧れが同居し、しかも分裂しているのでしょうか。
酒井 その通りです。ビジネス界でも、アメリカ留学組が幅を利かせています。アメリカの自由さに片思いしつつも、アメリカに裏切られて反発しているのかもしれません。
― いつになっても、アメリカに追いつけない苛立ちもあるかもしれませんね。
酒井 だからこそ彼らは、日本贔屓でもありますね。日本にはアメリカに伍する国になってほしいと思っています。いわば判官贔屓ですね。
― そう中東から見られている当の日本は、中東に対して理解を欠いているような気がします。
酒井 それは世界的にいえることです。日本はまだアラブ世界とイスラエルの対立を中立的な立場で見ている方でしょう。欧米先進国はこぞってイスラエルを無条件に支持していますし、アメリカ国内ではとりわけ、イスラエルの不利になる報道は流れません。
アラブ人側もこのあたりは十分認識していて、自分たちには潤沢なオイルマネーもあるのだから、ユダヤ民族が自らの迫害を「アンネの日記」で伝えたように、文化的な発信をもっとしていき、世界の人々に理解してもらうべきだという人もいます。
― イスラム世界の人々は、メンタルの部分では、日本人に近いところが多々ある気がします。たとえば、日本人も原爆による大虐殺を世界に発信していません。
酒井 アラブ・イスラム圏の人々は、日本に来ると必ず広島・長崎を見てみたいと言います。逆に日本人は、せっかく日本に来たのになぜ広島・長崎なのかという感覚です。彼らにしてみれば、日本人には、広島・長崎の体験こそ世界に伝えてほしい、同様にイスラエルに攻撃されている自分たちも共感したい、そう考えています。なのに、日本人の反応に、肩透かしを食らって帰っていきます。
日本人は日本の戦後を
中東に語るべき
― 彼らにしてみれば、なぜ日本人が原爆を投下されてなお、それがなかったことのように、アメリカと付き合っているのか、理解に苦しむのではないでしょうか。
酒井 そうですね。しかし、フセイン政権下のような国にも戻りたくない、アメリカによる占領も嫌だと感じ、でも明日を生き抜かねばならない人々がイラクにはいます。そんなイラクに対し、曖昧なまま前に進む方法もあると、日本の経験を語ることもできると思います。
そう。日本はイラクに対し、日本の戦後を説明すべきです。アメリカに負けて、被害を出したにも関わらず、経済的な発展を果たしました。日米関係に問題がないわけではありませんが、なんとかうまく付き合っています。これを情けないという人もいるかもしれませんが、これはこれで日本の生きる術であったと思うのです。日本がアメリカとの関係でどんな苦労をしてきたか、どうやって知恵を働かせて生き延びてきたか、イラクをはじめ中東の人たちは知りたがっています。
― 柔軟性の強い日本文化が主張の強い男性的なアメリカ文化を受け入れたからこそ成り立っている日米関係と思うのですが、アラブとアメリカでは、気質的にぶつかり合いませんか。
酒井 確かにアラブ社会は、表面的にはマッチョです。プライドと意地と面子の世界です。しかし、一方で日本人とメンタリティを同じくする部分もあります。アラブで議会や会議を意味する「マジュリス」という言葉がありますが、この語源は「座る」という意味です。つまり、まず腰を落ち着かせるところから、議論が始まるわけで、ここは日本人に似ていると思います。日本的な対話の技術は、アラブの人もきっと評価するはずです。そして、アラブ人のそうしたメンタリティに対し、「きっと役に立つよ」と言ってあげられるのは日本人だけでしょう。
― 日本にいながらにしては分からないイラクや中東の情勢について、だいぶ視界がすっきりしてきた気がします。本日はありがとうございました。
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