CCI

   2006年 5月号 No.694




新世紀への提言


武田 美保
 シンクロスイマー
 1976年京都市生まれ。5歳から水泳の名門・京都踏水会で水泳を始める。7歳から同会のシンクロコースに入門。13歳の時、井村シンクロクラブに移籍。同年、ジュニア日本代表。17歳でナショナルA代表入り。立命館大学在学中の97年より立花美哉選手とデュエットを組み、その後日本選手権7連覇を果たす。
 アトランタ、シドニー、アテネの3つの五輪で銀・銅合わせて5つのメダルを獲得。日本人個人が持つメダル数では、デュエットパートナー立花選手と並び歴代1位。アテネ五輪後、競技生活を引退。現在は、講演、舞台出演、水着のプロデュースなど活動の幅を広げている。
公式HP:http://www.mihotakeda.net

  


人は、自分が思い描いた
自分になることができる


 トリノオリンピックでは、荒川静香選手の金メダルに日本中がわいた。荒川選手に限らず、アスリートが夢に向かうモチベーションの強さ、それを支えた不断の努力に多くの人が心打たれたことだろう。
 アトランタ、シドニー、アテネの三大会で、五つのメダルを獲得したシンクロナイズドスイミングの武田美保さんは、「人間は意識次第で変われる。なりたい自分になれる」と言う。武田さんの言葉は、現代の日本人が忘れかけていた、夢を追う純粋さと、ひたむきな努力を続けることの大切さを思い出させてくれる。

シンクロの不思議な美しさに
魅せられた


― 武田さんが、シンクロを始められたきっかけは何だったのでしょうか。

武田 両親の勧めで五歳から水泳教室に通っていて、七歳の時にシンクロをやらないかと声を掛けていただきました。そもそもシンクロの表現に興味がありましたし、初めてシンクロを見た時、その不思議さ、きれいさに魅了され、声を掛けていただいたその日に、「私はこれをするんだ」って決めましたね。

― ご自身も、シンクロの美しさや優雅さを表現してみたいと思われたのですね。

武田 はい。シンクロをするうちに、演技することが私の自己表現の仕方になってきて、競技と自分がどんどん重なっていきました。それがとても楽しかったですね。

― シンクロという競技は、個々のクラブからオリンピック代表選手が出ますね。企業などが支える他の競技と違い、新しい形態をもっているように思うのですが。

武田 そうかもしれません。私自身、中学、高校、大学では水泳部に所属していましたが、練習の場は小さい時から通っていたシンクロクラブでした。そういった意味では特殊ですよね。日本が常にメダル圏内にいられる理由もそこにあると思います。小さい頃からの一貫教育なので、コーチは選手のことを知り尽くしていますから。

― 全日本のヘッドコーチ井村雅代さんとの出会いは、いつ頃だったのでしょうか。

武田 中学一年生の時です。井村先生の存在は知っていて、いつか自分もみてもらえる選手になりたいと願っていました。初めてみていただいた時は、胸が高鳴るぐらい嬉しかったんですけど、一方でとても緊張しました。怒られないようないい演技をしよう、そう考えて泳ぎました。でも何度やっても、先生が伝えようとするイメージを体現することがうまくできないんです。
 その年の全国ジュニアオリンピックで絶対に優勝できる自信もあって、自分の演技を崩したくなかったのでしょうね。私も生意気だったのか、先生の指導を素直に聞くことができませんでした。先生は、これまでの私の演技の、さらに上のレベルで教えて下さっていたのに、私はこれでいいんだと、自分を変えようとしませんでした。

― 井村コーチは、そんな武田さんをどう評価されましたか。

武田 「あなた引退する気か」とおっしゃいました。技は器用にこなすのに、こぢんまりとまとまりすぎていたのですね。まだ若いのに守りに入っている、そう先生の目に映ったのでしょう。今はもっと荒削りでいいと井村先生は思われたようです。だから「引退する気か」という言葉になったのでしょう。

井村先生のシンクロへの純粋な情熱

― 井村コーチと武田さん、立花さんが、オリンピックのメダルを目指す姿は、まるで武芸の求道者のように映りました。井村コーチのシンクロに対する想いも、武田さん同様純粋だったのでしょうね。

武田 先生のシンクロにかける情熱は半端じゃないです。自分が言ったことは必ずやる、その信念がすごく強い方です。練習では先生からかなり厳しいことを言われますが、先生の情熱や純粋さが伝わるので、この先生についていけば間違いないと信じることができました。もちろん悔しい思いもします。しかし、後から成果がついてくるんです。ほしい順位を本当に手に入れているし、オリンピックの舞台に立っていい演技ができました。後から、先生がおっしゃっていたことの意味がちょっとずつ分かってくる、そんな感じでした。きっと、先生は私の性格も知り尽くして、発破をかけながら導いて下さったのだと思います。

― 現在、日本の教育界が荒れていると言われます。武田さんのお話を伺っていると、教育の根本を支えているのは、理論や技術ではなく、指導者が子供の成長を願う純粋な想いなのではないかと感じます。その想いさえあれば、多少厳しいことを言おうが、子供は理解できるのではないでしょうか。

武田 その時は分からなくても、きっと分かる時がくると思います。
 それに、先生はいろいろなことを私に気づかせてくれました。アトランタオリンピックの選手選考会の時もそうです。選手になれるかなれないかギリギリだった私が先生に相談すると、「まあ今のままでは無理やろな。でもあなたの強みは何やと思う?」私が得意なことといえば、倒立姿勢です。「それでいちばんになれば、他がダメでも枠の中には入れるはずや」とおっしゃいました。その言葉に目の前が開けましたね。

― 自分の強みを磨いていけば、他のこともついてくるということですか。

武田 誰しも、自分が苦手なことに眼を向けたくないじゃないですか。でもそれをクリアしないと試合では勝てません。だけど、苦手なことだけをやっていても、急に上手くなれるわけではありません。一日の練習の中で何か一個できたという達成感が得られると、自分のキャパが広がります。すると苦手なことに眼を向ける余裕が出てくるんです。だから、自分の得意なもの一個、苦手なもの一個をセットにして課題に取り組むことが大切なのです。

気持ちを変えれば身体も変わる

― シンクロを拝見していると、素人の私たちは、どうして選手の皆さんは息が苦しくないのかと思います。訓練で慣れてくるものですか。

武田 慣れないです。苦しいままですね。笑顔のままですけど、酸欠との戦いです。アテネでやったプログラムは、前半、二十五秒ほど潜ったままの演技がありました。水中から上がってきた瞬間は、いつも視界が真っ白でした。でも、反復練習で動きが身体に染みついているので、頭で判断できなくても演技が続けられ、そのうちに意識が戻ってきます。

― 壮絶な世界ですね。無意識で身体が動くまでには、練習量も並大抵のものではありませんね。

武田 オリンピック前には、一日十時間以上の練習を週に三日間、これを半年間缶詰状態でこなしました。その間は、どんなに寝ても万年寝不足でしたね。

― それを乗り越えたのは気力ですか。

武田 そうですね。でも、練習を続けるうちに分かってきました。環境を変えるのは、自分以外にありません。しんどいなと思って続けていると、それが演技に出て、注意され、身体だけじゃなく精神的にももっとしんどくなります。身体と心ってつながっていて、怒られて精神が病むと身体が動かなくなります。だから、いいトレーニングをして、試合本番で怖気づかないように、気持ちの持ち方も自分で変えるんです。

― 具体的には、どうなさったのですか。

武田 単純なことです。返事を変えました。先生の顔を真正面に見て「はい」と返事する、それだけです。
 演技について注意を受けた時、心から直そうと一〇〇%思わないと、身体も変わっていきません。駄目出しをされると、それまでは自分の心をどこか遠くへ置いていて、返事もうわの空でした。傷つかないようにしよう、感じないようにしようと、心を閉じていたのですね。当然、身体はついていきません。注意されたことがいつまでも直らないので、精神的な重圧も掛かります。そこで、技術的なことを修正する前に、「自分は変わったんだよ」ということを発信しようと思ったんです。

― 気持ちが前向きになることで、身体がついていくわけですね。

武田 ええ。初めは、先生の言葉がダイレクトにぶつかってくるのが厳しかったですが、できない自分を認めて、先生の言うことを全部受け止められるようになると、練習への取り組み方が変わりました。先生からの反応も変わりましたね。それからは、練習環境も急にいい方向へ向かったように思います。

母との対話が今の自分をつくった

― あるがままの自分に向き合うこと、そして自分と対話することが、アスリートにとっていかに大切かということですね。

武田 ええ。自分がすべきことは何か、どうしたらそれができるのか、スピーディに思考できる力ですね。そのためには、日頃から自分自身を見つめ、考えることを習慣づけることが大切です。最初はすごく時間を掛けて掘り下げないと分からなかったことが、瞬時の思考でできるようになると、スポーツ競技に限らず、人の成長は速いと思います。

― 自分の心の問題点、技術の問題点を、いつも見つめているもう一人の武田さんがいるのですよね。

武田 はい。感覚的な表現ですが、私の意識の中では、自分を後ろから見ている時があります。練習中も、自分を客観視して見る自分がいます。

― どうやってそうした習慣を身につけられたのでしょう。

武田 意識付けしてくれたのは、母かもしれません。シンクロのことに限らず、子供によく話をさせる親です。母としては、子供を把握することが重要だと思っていたのでしょうね。母に対し、自分のことを話すうちに、自分としっかり向き合うことを私は覚えていきました。

― 武田家では、親子のコミュニケーションが豊かだったのですね。

武田 ええ。年頃になると親に隠したいこともあるものですが、隠しても母には全部バレてしまいます。この人には敵わないなと思いました。
 今、いろんな少年犯罪がありますが、原因はコミュニケーション不足以外の何ものでもないと思います。周りの大人達が気づいて導いてあげないといけないのではないかと思います。
 私自身のことを振り返ってみると、外から帰ってきた時や夕食の時の母との会話が、今の自分をつくったのだと気づきます。

― 競技について、お母さんとはどんなお話をされたのですか。

武田 技術的なことだけでなく、余所の人に聞かれたら恥ずかしいようなことも話しましたよ。「今日、私は一生懸命やっていたのに、あの先生は他の子しか褒めなかった」みたいな話もしました。すると母は「嘘っ、それ腹立つなぁ」って言うんです。かと思うと、試合で負けて泣きながら帰ってきた時に、「何で負けたの? 何でできなかったの? あんた、また同じことやってるの」と追い討ちを掛けます。次はこうしてみると私が言うと、「絶対しなさいよ」なんてコーチみたいです。後で考えると、母は私のことを心の底から思ってくれていたのだと感謝しています。

― お母さんも、武田さんが小さい頃に、将来はオリンピックに出ると思っていらっしゃったのですか。

武田 小学校の頃から、母と二人でその気でした。父も母もスポーツとは無縁だったので、親戚からは相手にされていなかったみたいですが、オリンピック選手になれると、私も母も思っていました。揺らいだことはないです。なれない自分がイメージできませんでした。なれなかったらどうしようと考えるよりも、上手くなるためにどうするか、そればかり考えていました。母も「技術的に上手くなるだけじゃなくて、オーラ出さなあかんで」と盛り上げます。もはやプロデューサーですね。

― 人間というのは、自分が思ったものになれるのですね。

武田 念ずれば叶うではないですが、夢が着実に叶っていきました。そして、運だけでは片づけられないほど、夢を叶えるための環境づくりに自分自身で努めました。中途半端な練習はしなかったです。それは自負できます。

試合に出るのが
初めて怖いと思った時


― 立花さんと初めてデュエットを組まれたのはいつでしたか。

武田 アトランタの翌年の九七年です。それまで立花さんは他の方と組まれていて、その方のほうが体型も雰囲気も合っていました。ところが、その頃私の調子がとてもよくて、選考会で立花さんに次いで二位になってしまったのです。立花さんと組むことには憧れていましたが、実際にパートナーになるとはイメージできなかったので、正直驚きでした。

― 練習を始められてからは、いかがでしたか。

武田 初めはかなり戸惑いました。

― 立花さんの泳ぎに武田さんが合わせる必要があったということですか。

武田 キャリア的にはそういう流れも当然ありました。立花さんあっての武田であると徹底的に意識づけられました。キャリアが上である立花さんに合わせていくのに、自分の泳ぎを変えなければならないこともありました。シンクロは同調しなければシンクロではないわけですが、合わせる作業は平易なものではありません。心臓の強さには自信のあった私が、九七年のワールドカップに出場する際、初めて試合に出るのが怖くて泣きました。

― 自分の演技に自信がもてなくなってしまったのでしょうか。

武田 演技が身についていないまま試合に出る怖さからですね。練習の間、一度たりとも褒められた記憶がないのです。

― お二人の息が完全に合うのに、どのくらいの時間が掛かりましたか。

武田 四年掛かりました。立花さんのクセと私のクセを比較して、どうすれば演技が揃うか試行錯誤し、前よりもましになったらそれを支えに次のステップに行こう、その繰り返しでした。

― 先程のお話からすると武田さんが歩み寄ることが多かったのですか?

武田 もちろん立花さんも歩み寄って下さることはあったと思います。立花さんは、とてもストイックな性格の方で、トップ選手なのに誰よりも練習されていました。演技が優雅で、立ち姿も日本人離れして美しいことは誰もが認めます。しかし、ご本人はいつでもコツコツ練習しなければと考えていらっしゃったようです。その背中を見てくれ、そんな方です。

― パートナーであっても、単なる仲良しではダメなのですね

武田 ええ。八年間組ませていただきましたが、ずっと練習での緊張感を保ったままだったのが、私たちにとってよかったのかもしれません。相手の調子が悪くても、自分が課題をこなせれば、先にプールから上がります。お互いにそうでした。

意識次第で思う自分になれる

― デュエットを組むことの難しさ、まして第一人者と組むことの難しさがそれほどとは思いませんでした。

武田 私の気持ちを支えていたのは、立花さんに完璧に合わせることができるのは私だけだ、だからこのデュエットが成り立っているんだというプライドでした。
 そうしてパートナーに徹すると決めてから、相手を感じる能力、感度がとても高くなりましたね。今この瞬間、泳ぎながら相手が考えていること、感じていることを、私も身体で感じることができるようになったのです。

― 感性が研ぎ澄まされ、それがお二人の演技の情緒、芸術性を生み、オリンピックでのメダルにつながったのですね。

武田 ロシアの選手の同調性には敵いませんでしたが、シンクロはそれだけじゃない。シンクロの芸術性とは何かと問われたら、答えはないなと常に思います。

― 武田さんと立花さんのように身長も体型も違う二人が、デュエットで銀メダルを取られたことは、世界のシンクロを変えるのではないでしょうか。

武田 合わない二人を合わせるのが感動ですし、それが自分たちの持ち味だと言ってやってきました。私もパートナーとして、立花さんの動きに同調できるように、体つきを変える努力もしました。自分も細長く見えるように体重設定も変えました。立花さんのしなやかな動きを意識しながら毎日トレーニングすることで、足の筋肉のつき方も変わりました。似てくるんですよ。これを自分で感じて、人間って変われるんだな、意識次第で自分の思う自分になれるんだなと思いましたね。
 立花さんと組めたこと、世界の舞台に立てたこと、その過程で学んだこと、すべてが私のセカンドステージにとって、大きな糧になってくれると思います。

― これからシンクロを目指す若い人たちにメッセージがあれば、お聞かせ下さい。

武田 とにかく毎日の発見を楽しんで下さい。楽しいと思えたら、何事も前に進みます。練習がつらくても、自分が進歩したことの喜びが大きければ、続けられると思います。そして、喜びを大きくしようと思ったら、日々の楽しさを見過ごさないよう感性を磨くことだと思います。

― 人は変わることができるのだという、現代の日本人が忘れかけていたことを、思い出させていただいたような気がします。本日はありがとうございました。


  




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