CCI

 12月号 No.689




新世紀への提言


細川 佳代子
 NPO法人スペシャルオリンピックス日本理事長
1942年神奈川県藤沢市出身。上智大学英文学科卒業後、日本企業の駐在員として欧州に3年滞在。71年細川護煕氏と結婚。夫の政治活動を支えながら、さまざまなボランティア活動に取り組んできた。94年SO日本を設立、現在は理事長。2005年に長野で開催されたSO冬季世界大会では、大会会長として尽力した。
また、知的障害のある青年たちを追ったドキュメンタリー映画『エイブル』、『ホストタウン』、『ビリーブ』では製作総指揮を務めている。

  


長野スペシャルオリンピックスの
本当の成果はこれから実ります


 スペシャルオリンピックス冬季世界大会は、長野県はもとより日本中を感動の渦に巻き込んだ。
 五輪やパラリンピックを経験した私たちも、当初スペシャルオリンピックスについて知ることは極めて少なかった。ところが、この大会の開催を契機に、私たちの知的障害者に対する認識は大きく変わり始めたのではないか。
 スペシャルオリンピックス冬季世界大会は、長野や日本に何を残したのか。NPO法人スペシャルオリンピックス日本理事長として、この大会の実施に関わった細川佳代子氏にお聞きした。

認知度が低いから世界大会を招致

― 長野市などで開催された二〇〇五年スペシャルオリンピックス(以下SO)冬季世界大会は大成功に終わりました。細川さんもようやく落ち着かれたと思いますが。

細川 長野の皆さんのおかげで素晴らしい大会となりました。今は肩の荷が下りてほっとしています。大会前には毎朝起きる度に、その日の段取りで頭を悩ませ、またいつ倒れても不思議でないほど、動き回りました。そんな日々が嘘のように精神的重圧から解放され、気持ちが楽になりました。
 私がSOの活動を知ったのは、十四年前のことでしたが、それ以来何とかこの活動の素晴らしさを日本で広めたいと努力してきました。世界大会を開催できたことで、私の仕事も一つの節目を終えたと思っています。

― SO世界大会を日本に招致された経緯についてお聞かせ願えますか。

細川 二〇〇〇年七月に私たちSO日本の幹部が、ワシントンのSO国際本部へ研修に行った折、ティモシー・シュライバー会長から、二〇〇五年冬季大会の開催地として、日本も立候補してみないかとお話をいただきました。当時はまだSO日本の組織は小さく、国内での認知度も極めて低かったため、「日本で開くのは、現時点で不可能です」と私がお返事すると、彼は「だからこそ世界大会を開催し、認知度を高めることが必要なのではないか」と言うのです。「九三年に世界大会を開催したオーストリアは、まさに今の日本と同じ状況で、SOについてほとんどの人が知らなかったし、日常の活動に参加するアスリートも千人しかいなかった。にもかかわらず世界大会を招致開催し、その結果今はヨーロッパで最もSOが盛んな国になっている。アスリートも二万人になり、国中でボランティア活動が盛んだ。オーストリアでは世界大会がもたらした遺産の大きさを実感し、再び招致に手を挙げている。日本は経済的にも教育的にも文化的にもすばらしい国だ。日本ならオーストリア以上の、バリアフリー社会が実現するはずだ。大会はSO日本がするのでなく別に実行委員会をつくるのですよ」そう諭され、その考えに私も共感しました。SO日本設立から六年が経っていた時のことです。このまま地道な活動を続けることも大事なのかもしれないけれど、マスコミも全く関心を示さず、一般市民の理解が得られない今の状況は、容易に変わらないのではないか、そんな危惧がありました。ですから、世界大会の開催が、マスコミを動かし、日本の社会を変える強烈な起爆剤になると、立候補を決意したのです。

長野だからSOは成功した

― 細川さんの想いの強さは相当なものだったのですね。

細川 はい。とはいえ、私も含めSO日本のメンバー誰もが、初めての経験です。この話を日本へ持ち帰り、理事会で討議しましたが、大半が立候補に反対でした。採決の折、私はティモシーの言葉を借りて、「前向きにやりましょう」と役員を説得しました。最後には役員会の意見もまとまりました。
 招致委員会を立ち上げたのが二〇〇〇年秋でした。すぐに長野県と長野市に協力のお願いに伺うことにしましたが、県のご協力はすんなりいただけませんでした。折しも知事選の真っ最中でしたし、田中知事誕生後もなかなかアポがとれませんでした。長野五輪の招致と開催で生じたさまざまな問題のために、県側としては、「オリンピック」という言葉に、当初アレルギー反応を示していたのかもしれません。
 幸い市側では、当時の塚田市長が「長野五輪の施設がそのまま残っているのだから、国際大会の開催は大いに歓迎します」とご協力いただけることになりました。

― では県側とは招致前に話せなかったわけですね。

細川 ええ。年があけて二〇〇一年の二月、アラスカでの世界大会の期間中に日本での開催が決定しました。県側と接触できたのは、その年の春です。ようやく六月七日、田中知事とも共通の知人を通じてお会いすることができ、世界大会の趣旨も理解していただき、最後にはご協力をいただくことができました。

― 開催地が日本に決まった理由は何だったのですか。

細川 第一にアジアで初の開催になるということ、第二にオリンピック、パラリンピックが行われた世界最高水準の会場で競技ができるということ、この二点がキーとなりました。

― その後、開催までの準備も大変だったかと思います。

細川 まず実行委員長を引き受けてくださる方がいませんでした。たまたま盛田英夫氏をご紹介いただき、世界大会実行委員会(GOC・本部東京)委員長を引き受けていただきました。しかし、組織作りも資金集めも遅々として進みません。事業計画や予算計画もなかなかできあがらない。招致委員会を務めた私たちも心配になり、協力したいと申し出たのですが、「GOCの責任ですべてやるから」と、大会の準備に関わらせてもらえませんでした。
 開催地である地元長野に運営組織がないために、事が進まなかったのです。大会開催まで一年を切った二〇〇四年の四月、ようやく長野における実行委員会(SONA)が立ち上がり、理事長には安川英昭氏が就かれました。実質的な準備はすべてここから始まりました。

― 安川氏がSONAの理事長に就いたことで、長野の経済界も本気になって動き出せたと思います。行政や政治もこれに連動しました。

細川 確かに。そして、あれだけの短時間で大会開催にこぎ着けることができたのは、開催地が長野だったからだと思います。五輪とパラリンピックを経験したという自信と誇りが長野市民、長野県民の皆さんにはありました。長野以外では考えられなかったのではないでしょうか。

まず、家族の意識が変わり始めた

― 行政にも民間ボランティアにも、五輪やパラリンピックの経験が生きていたのでしょうね。
 ところで、これまで知的障害者が、大会期間中のように外に出ることは少なかったですよね。家族が自分の子どもを隠し、小学校にも上げなかった時代もありました。SOは、社会の中に知的障害者に対する意識革命を起こす一大イベントになったと思います。そういった意味で、五百万人トーチランはとても印象的でした。

細川 開催地の長野だけでなく、日本中の皆さんにSOの素晴らしさを知っていただきたい、世界大会を盛り上げていただきたいと考え、招致活動の企画段階から考えていたものです。最終的には、四十七都道府県四百二十の街でトーチランが実現しました。実際に障害のある方でトーチランナーとして走った方は、八千四百人余に及びました。
 知的障害者と呼ばれる人がいることは知っていても、実際にどんな障害を持った方なのか認識のない人が日本には大勢いらっしゃいます。しかし、ともにトーチランをしたことで、日本各地で障害のある人に対する認識が変わり始めたのです。

― 世界大会の開催により、私たちが得た大きな資産の一つですね。

細川 ええ。例えば鳥取の米子で、こんな象徴的な出来事がありました。鳥取にはSO日本の組織がなく、直接頼れる知人もいなかったものですから、トーチラン実施決定に最後まで時間がかかりました。幸い司葉子さんから米子のキーパーソンをご紹介いただき、その方のご尽力で鳥取でもトーチランが実現しました。米子も日本の他の街と同様、知的障害のある人に対する認識が低く、彼らが外に出ることは、ほとんどなかったそうです。彼らの親御さんに、「参加しませんか」と声を掛けても、親たちは初め嫌がったそうです。しかし、実行委員の頑張りもあり、最後には九十八人の障害のある人が参加してくださいました。準備期間は四ヶ月もなく、当日も一月の寒い日だったにも関わらず、実際走った人も、ボランティアの皆さんもたいへん楽しんでくださいました。その後、米子で大きな変化が現れたのです。

トーチランが米子にもたらした奇跡

― 知的障害者と社会の関わり方の変化ですね。

細川 ええ。世界大会終了後、「SOの活動を始めるために指導してください」と米子の皆さんからお声が掛かり伺いました。「講演の前にファッションショーを企画したので、これにも出席してほしい」と言われ、会場に入った私は目を見張りました。ショーのモデルはすべて知的障害のある皆さんなのです。トーチランをしたことで、知的障害のある人もその家族もとても喜んだそうです。外に出ることが楽しくて仕方なかったと聞きました。親の会では、こんなに子どもたちが喜ぶなら、春になったら春らしい洋服を着せてあげて街にもっと出るようにしようと話したそうです。そしてファッションショーが実現し、モデル募集の呼び掛けに十九組の家族が手を挙げました。五百円で売り出したチケットもすべて売れ、会場は満員です。
 私も最後の組で障害のある青年と一緒に歩くことになり、ステージの後ろで控えていました。その時、二十代の女性がそっと私に声を掛けてくれたのです。「細川さん、一言御礼のご挨拶がしたくて伺いました。実は私の三十五歳になる兄は自閉症なんです。このご時世ですから、何年か前にリストラの対象になり、一日中自分の部屋にこもっています。私は兄が外に出ればいいのにと思うのですが、うちの親が兄のことを隠すんです。あのままでは兄が可哀そうです。私はこれまで、兄のような知的障害のある人を自然に受け容れることができないこの街に対して失望していたんです。そんな時、トーチランの参加者を募る新聞記事を目にしました。障害のある人がトーチをもって主役で走るなんて私には信じられませんでした。心が躍って、すぐに兄が出られるように申し込み、私も実行委員としてボランティアに参加しました。本当に楽しい活動ができて感謝しています。
 トーチランが終わり、これでまた今まで通りの米子に戻ってしまうのかって、実は少しがっかりしていたんです。ところが今度はファッションショーです。今まで障害のある人のイベントがあっても、誰も見向きもしなかったし、親の会さえチケットを売ろうなどと思いもしませんでした。一般の市民の皆さんが、こんなに大勢、しかもお金を払って来てくださっています。私は信じられないほど驚いています。今、米子に奇跡が起きています。これから米子でSOの活動が始まるのなら、私は親を説き伏せて兄を参加させます。私も必ずボランティアとして参加します」。この話を聞いた時ほど、トーチランが実現できて本当によかったと思ったことはありません。

企業における社会貢献活動の変化

― SO世界大会を契機として、日本社会の中でも、企業が積極的に動き出しましたね。

細川 はい。企業のボランティアに対する取り組みも大きく様変わりしたと思います。私たちがSOの活動を始めた十年ほど前、ようやく日本でも企業が社会貢献をすべきだと認識され始めた頃でした。大きな会社が、社会貢献費を予算枠で設けたり、広報に社会貢献の部門を置いたりし始めました。

― ちょうどメセナ活動が盛んになった頃ですね。

細川 ええ。当時の企業の活動は、会社主導の活動でした。経営者や特定の部署に配属された社員が取り組むものだったのです。今は社員さんが自主的に動いています。自分たちで何をすべきかを決めて、自分たちが参加実践して、学んだことを会社にフィードバックしています。以前はボランティア休暇があっても、利用する人はいませんでしたが、今はこれをフルに使う社員がたくさんでてきています。会社側もボランティアに参加する社員に対し、バックアップ体制を整えているのです。

― 社会貢献が形だけのものではなく、日本社会の中で本物になってきたのでしょう。

細川 こんな例もあります。近年、日本に外資系の企業が増えましたね。そうした会社にはもちろん外国人が数多くいて、彼らの中には週末にボランティアをすることを当たり前と考える人たちがいます。長野でSO世界大会が開催されると聞き、彼らは「皆でボランティアに行こうよ」と会社で言い出しました。それまでSOのことを知らなかった日本人も、そうした外国人の言葉をきっかけに、ボランティアに参加するようになったのです。いざ参加してみると、その感動は他では得がたいものでした。その体験が社内に広がり、社会貢献が自然に行える企業文化が育っていったそうです。
 また、企業がお金や物をNPO、NGOに一方的に支援する社会貢献活動は過去のものになりつつあります。今回大会ボランティアに参加いただき、今後もSOを支援したいという企業との間で、互いにメリットが見出せる、より強い協力関係を築こうと、SO日本ではこの九月に企業支援委員会という名の専門委員会を立ち上げました。

― 五輪の際も五万人のボランティアが活躍しましたが、今回SONAのボランティアは格段に質が向上したのではないでしょうか。事務局に派遣されたボランティアは、企業側も優秀な人材を選んでいたようですし、実際に参加した社員も自負をもって取り組んでいたようです。

細川 自発的な個人が増え、組織としての企業も行政も、自らの社会的責任の中の非常に重要な位置に、ボランティア活動を置くようになったのだと思います。

今後も障害者の
活躍の舞台作りが課題


― 長野市では、SO世界大会で余ったお金をファンドにし、さらにこれに寄付を集めながら、日常のSO活動の支援などをしていこうという組織も立ち上がりました。

細川 長野の皆さんと東京にできた成功させる会と私どもSO日本が懸命に集めたお金を、SONAの皆さんがやはり懸命に倹約してくださったおかげでもあり、ありがたく思います。

― お金を節約したことが手作り感を生み、よい結果につながりましたね。開会式や閉会式も、地元のアーティストや民俗芸能を上手に使った演出が光っていました。

細川 その通りです。

― 予算規模は五輪に比べ小さくとも、文化的な意味で世界から集めた賞賛は、長野五輪に匹敵します。SOは長野の社会を成長させてくれたようです。
 さて、今後細川さんはどんな活動をされていかれるのですか。

細川 SOの活動は今後も続けていきますよ。全国でまだ十三の県にSOが組織されていません。これらすべての地域を回り、SOが日本中で行われるようにしていくことが当面の課題です。
 世界大会で蒔かれた種が花を咲かせ実をつけるには、十年ぐらいの時間がかかると思います。今回、知的障害のある人に対する偏見を拭い去るきっかけができました。この契機を大切にして、知的障害のある人に対する本物の理解につなげること、知的障害のある人が一般の社会の中で活躍できる場が当たり前に存在し、彼らにとっても、社会にとってもそれが自然体であること、そんな社会が十年後に実現できたら、その時にこの大会が本当に成功を収めたと言えると思います。そうした心のバリアフリーの社会を実現するために、私はこれからも動くつもりです。

― 知的障害のある人と一般市民との接点が、スポーツに限らずさまざまな面で増えていきそうですね。

細川 現に他の文化部門でもバリアフリー化が進んでいます。指揮者の小林健一郎さんが「コバケンと仲間たち」と題して、知的障害のある人が一般の聴衆と一緒に演奏を楽しめるクラシックコンサートを開いています。これからこうした動きは、心ある音楽家の中で連鎖反応を起こし、日本の音楽界に広がっていくと思います。また、米子でのファッションショーの成功に刺激され、日本の一流のデザイナーたちも、衣装を提供したいと申し出てくれています。
 障害のある九名のクルーが製作に参加している、世界大会を舞台にしたドキュメンタリー映画『ビリーブ』が来春公開されますが、今後もこの活動は続けます。彼らの中には、プロ顔負けの腕をもったカメラマンがいます。他にも、音声や照明のプロが次々に誕生してくれば、彼らの力だけで番組を制作し、テレビで放映してもらうことも、近い将来可能でしょう。あらゆる分野で彼らが持っている能力を育て、その証を一般社会の中に作ることを支えていきたいと思います。

― 細川さんの夢はさらに大きく膨らんでいきそうですね。SO世界大会の開催で、長野市にも大きな社会的価値が残せたことをあらためて感謝します。本日はありがとうございました。


  




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