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人間の建て前では計れない
自然界の不思議
動物社会学という学問がある。ある動物の夫婦や兄弟、親子、仲間関係について調べる学問だ。猿の社会学はよく知られるところだが、鳥社会についての研究はここ二十年で大幅に進展した。その立役者の一人が、鳥類学者山岸哲氏だ。
仲睦まじく子を育てる鳥たちの社会にも、人間の倫理観などでは計れない複雑な世界がある。山岸氏の研究は、鳥社会の謎に迫りながらも、同じ地球上に生を受けた人類が、いかに特異な存在であるか語っているようだ。
鳥についての話は、長野県人気質、現代の子ども論にまで及んだ。
長野県人は、建て前に弱い
― 山岸先生は長野県のご出身でしたね。お生まれはどちらですか。
山岸 須坂市です。佐久の父親の生家に三歳から預けられ、小学校に上がる前に長野市に越して、学生時代まで過ごしました。
― ご著書を拝読すると、子どもの頃から自然に親しんで過ごされていたようですが。
山岸 家の近くに、善光寺や大峰山や旭山があって、どれも子ども時代の遊び場でした。当時から鳥の巣探しも盛んにやりましたし、捕虫網を持って蝶も追いかけ、植物採集もしましたよ。興味の中心が鳥になったのは、小学校四年生以降です。もちろん、将来これで食べていこうなどとは思いませんでしたが。
― その後、長野県を離れられて、外から見る長野県は、先生の目にどう映りましたか。
山岸 出身県によって、人の気質や文化が違うことに驚きました。大学時代や中学校の教員時代、望遠鏡を担いで鳥の観察に行くと、長野県の人は「何をしているのか」と必ず聞きます。「ホオジロの研究です」と答えると、「研究は大事なことですから頑張ってください」と言ってくれます。しかし、大学の教員になり、大阪で同じようにフィールドを歩いていても、誰も関心を示しません。ごくごくたまに尋ねられて、「研究です」と答えても、「そんなアホなことは止めてきちんと仕事をしろ」と返されます。
― 研究などよりもっと稼げる仕事につけということですね。
山岸 ええ。買い物の時も、長野県人と大阪人ではずいぶん違います。もともと僕は商売ごとが苦手で、「値切る」という感覚がありません。本当の値段はどこにあるのか、値切った奴だけ得をするのか、どうも納得がいかないわけです。信州人の自分の中には、値切ることは悪いこと、みっともないことだという感覚があります。ところが、大阪ではおばちゃんたちがデパートでも値切る。あれはもはや文化です。
長野県人にとって、研究はよいことで値切ることは悪いこと、どうやら長野県人は建て前に弱いところがあるようです。
― 長野県人は観念論的なのかもしれませんね。
山岸 そうですね。例えば自然保護がよいことだということは分かる。しかし、なぜ自然保護がいいのか、具体的にどう動きだすのか、一人ひとりが明確にすることは苦手のようです。また、人やモノに対する評価も、自分の目でできず、何らかの権威や評判に頼りたがるところがあるかもしれません。
ただし、下賤な本音ばかりがはびこる今の世の中で、建て前を大事にする長野県人の気質を、清々しいと感じる時もありますね。
一夫一妻制を選んだ鳥社会の謎
― 先生の『オシドリは浮気をしないのか』(中公新書)などを拝見すると、建て前や人間の勝手な先入観を超えた、鳥の社会の現実が描かれていますね。
山岸 高校時代に今西錦司氏の『人間以前の社会』や伊谷純一郎氏『高崎山のサル』を読んで、動物社会学に興味をもちました。しかし猿の社会では、子育ては専ら母猿が行います。家族に父親が不在なのです。僕が猿でなく鳥を研究することにしたのは、僕が父親を早くになくしたことが理由にあるかもしれません。
― 鳥は両親がかいがいしく子育てしますものね。
山岸 ええ。哺乳類と鳥類では生理的な基盤がまず違います。哺乳類は読んで字のごとく、乳で子を育てます。父親は子育てにとって無用なものです。一方、鳥は卵で子を産み、哺乳類が産まれる状態と比べると早産です。だから両親とも同じ条件で子育てができるのです。父親は卵こそ産めませんが、抱卵はできます。給餌も鳥の場合は現物支給ですから、雄雌平等にできます。父親も子育てに参加できるのが鳥社会なわけです。
― 抱卵している間は自分が食べる餌が捕れませんから、交代要員がいないと不都合ですものね。
山岸 卵が孵った後も、片親が給餌を行い、もう一方が見張り役をすることができます。鳥にとっては二羽で子育てすることが合理的なようです。ほんとうにそうなのか検証しようと、子育てしているつがいから、親の片方を外す実験をした学者がいました。
― どうなりましたか。
山岸 父親を外すと、子が育つ確率が五割か、時にそれ以下に下がりました。ところが、母親を外した場合は、子は一羽も育ちません。つまり雄がいなくなっても、雌はがんばりますが、雄は雌がいなくなると、子育てを放棄するのです。実験結果からこんなことが考えられます。雄が子育てを放棄し、別の雌とつがいになり、また卵を産ませたとします。前の雌との間に生まれた子どもは五割の確率で育ちます。二番目の雌との間の子どもは自分が子育てに参加すればほぼ一〇〇%育ちます。雄にとっては、一羽の雌とつがうより有利な戦略になるはずです。
― その方が自分の子孫を数多く残せますものね。
山岸 そう。行動生態学では「自分の遺伝子をより多く残す」ことが、生物の行動原則です。この原則から考えると、その雄の遺伝子は集団の中で広がっていくはずです。しかし、現実の鳥社会はそうはなりません。
― そうできない事情がありそうですね。
山岸 道徳でも倫理でもない理由があります。先ほどお話したように雌は自分が子育てを放棄すれば、自分の遺伝子は一つも残りません。だから雌は子育てを放棄できない。雌にとってのベストの戦略は、雄を去らせないことです。そこで雌は、まず自分たちの縄張りの中に、雄が別の雌を招き入れようとすると、その雌を追い払います。雄は新たに縄張りを確保して、別の雌を探す必要が生まれますが、新たに別の縄張りを持つことは、鳥にとって非常に難しいのです。よしんば新しい縄張りが取れたとしても、雄は新しい雌とつがうことはできません。すでにすべての雌が繁殖しており、自分の子どもをなすことができないからです。雌が選択した戦略とは、すべての雌が同時に繁殖時期を迎えることだったのです。
― 新しい縄張りをつくってまで別の雌を見つけるメリットは、雄にはないのですね。
山岸 はい。自分の家族を守ることが、雄が自分の遺伝子を残すうえでも、ベストの選択なのです。結婚式で永遠の契りを結んだわけではなく、雄雌とも自己の遺伝子のコピーを残す最も合理的な方法に、自然にたどり着いていたのです。
ところが婚外交尾する雌がいる
― マイホームパパにならざるを得ないということですか。
山岸 ええ。これまでの話を前提にすれば、鳥社会は一夫一妻で、浮気は成り立たないことになります。しかし、そうとばかりも言い切れません。ある種の鳥で、別の雄と交尾している雌が見つかったのです。観察していた研究者は目を疑いました。そして、鳥に限って、こんなはずはないと考えたわけです。
― 相手を間違えたとか。
山岸 はい。その研究者は、たまたま異常な個体がいただけで、例外中の例外だと判断しました。しかし、婚外交尾する雌が、他にもたくさん見られるようになって、例外ではすまなくなったのです。
― しかし、雌の交尾の相手が、その夫であるか、別の雄であるかを調べるのは大変でしょう。
山岸 まず、どの雄とどの雌が夫婦であるか知らなければなりません。鳥は顔で区別できませんから、脚に色の付いた環をつけて、個体識別をするところから作業は始まります。
― その結果、婚外交尾はどの程度あったのですか。
山岸 私たちが大阪市立大学時代に調査したアマザキのケースでは、雌の交尾の六割以上が自分の夫以外とのものでした。稀なケースとはとても言えない数字です。ここにおいてなお、夫婦外交尾は現象としての交尾であって、子どもはできないのではないかと説明する研究者がいました。
― 人間としてのモラルが邪魔するのでしょうね。
山岸 これもやはり建て前でしょうか。生まれた子どもがどの雄の子か、手段はDNA鑑定しかありません。私たちの場合はモズという鳥で実験しました。二二組のつがいとその子どもから血液を採取し鑑定したところ、一割ほどの確率で、明らかに夫のDNAを持たない子どもが混じっていました。婚外交尾は社会システムとして組み込まれていると判断してもよさそうです。それでも、鳥の研究者というのはよほど人が良いのか、「雌が望んだ交尾ではない」と言い出す始末です。
― 強い雄に強姦されたと?
山岸 そう思わないと自分を納得させられなかったのでしょう。
しかし、その説には無理があります。哺乳類の雄に見られるような外性器、いわゆるペニスが鳥にはありません。交尾は、雄雌が互いに総排泄孔をすり合わせることで行います。この場合、雄に交尾の意図があっても、雌にその気がなく、地上に身を伏せてしまえば、雄は決して交尾に至れません。つまり、鳥の世界では強姦はあり得ないのです。さらに、婚外交尾が嫌な場合、鳴けばすぐにつがいの雄がやってきて、別の雄を引き離します。
どうやら婚外交尾は、雌が望んで行っているとしか考えられないのです。
より優秀な遺伝子を残すために
― ではなぜ、雌は婚外交尾をするのでしょうか。
山岸 鳥たちの世界では、雄が求愛行動をし、雌が自分の目に適った雄を選びます。より優秀な遺伝子を残すために、すべての雌が最も優れた雄を選びたいと考えます。ところが、先ほどお話したように、鳥類はより多くの子孫を残すために、一夫一妻制のシステムを原則としては選択しています。現実には次善、次次善の雄で、雌は妥協しなければなりません。そこで、婚外交尾により、雌はより優秀な遺伝子を残そうとしているのでないかと、今では考えられています。
― 遺伝子上の父親と育ての父親を、雌は使い分けているのですね。
山岸 人間の道徳観や建て前からすれば、恐ろしい話ですが。
― 雌は婚外交尾の相手として、どんな雄を選ぶのですか。
山岸 ツバメを例にとってみましょう。燕尾服という言葉があるように、ツバメの特徴はあの長い尾です。雄の資質も尾の長さで決まるという研究成果があります。
― 尾が長い方が雌にもてるわけですね。
山岸 その通り。その研究者は、ある雄の尾を切ってみました。すると、その雄がつがいになる日は他の雄に比べて遅くなります。次にこの切った羽を、普通の長さの尾をもつ雄に接ぎました。すると、尾がとても長い雄、普通の雄、とても短い雄の三種類を観察できます。いちばん早くつがいになれるのは、やはり超尾長の雄でした。これを確かめた上で、雌が婚外交尾をしている雄と、自分の夫である雄の、それぞれの尾の長さを比較してみました。
― 婚外交尾の相手である雄の尾の方が、夫の尾よりも長いと。
山岸 裏を返せば、もともと尾の長い雄とつがっている雌は、婚外交尾をしないわけです。
― 何だか身につまされる話になってきました。
山岸 建て前を信じたがる長野県人はあまりこうした話が好きではないようです。僕自身、長野県で研究者生活を送っていたら、婚外交尾など信じなかったかもしれません。しかし、建て前を捨ててみると、ものの見方が変わってきます。人間も何億年の進化の中で、鳥と同じようなものを共有している可能性があると考えるか、それとも婚外交尾はあり得ない、一夫一妻制こそ夫婦関係の原則だと、建て前論に縛られるかでは、ずいぶん生き方に違いが出てくると思います。それを知ったうえで、どう生きるかは各個人の問題ですが。
生態的ニッチが種の進化を生む
― 確かに、人間の身勝手な思い込みを捨てて鳥の世界を見ると、彼らの社会も複雑なのですね。
山岸 このような鳥社会の実態は、ここ二十年ほどの間に急速に分かってきたことです。私が大阪市立大時代、マダガスカルのオオハシモズを調査研究して書いた本の帯に、「鳥学は猿学に追いついたか」と編集者が記しました。
― 鳥学に世の脚光を集めた先生のオオハシモズの研究とは、どんなものだったのですか。
山岸 ある百科事典の翻訳を依頼され、その中にマダガスカルのモズについての記述がありました。オオハシモズ科として十四種の鳥が挙げられていましたが、図版を見ると色や形がまるで違い、同じ科とはとても信じられませんでした。長年モズを研究してきた身として、自ら確かめたかったのが、マダガスカルへ向かった理由です。
現地では、形態が違うモズがそれぞれ、どんな場所でどんなものを食べるか、生態的な観察から始めました。その後、それぞれの個体の血液からミトコンドリアDNAを採取し、塩基配列を比較しました。確かにマダガスカルに住むオオハシモズ科の十四種類は単系統のモズから分化したものであることが分かりました。
― 一つの種類のモズから、なぜ十四種類もの形態や色の違うモズが派生してくるかが、素人には疑問です。
山岸 マダガスカルの地理的条件が寄与していると思われます。大陸では、すでに多種多様な鳥類が生息し、新しくその環境に入った鳥が、独自の進化を遂げる可能性はほとんどありません。しかし、マダガスカルは島の面積に比べ鳥類が少なく、モズにとって多様な生活環境が開けていました。いわば生態的ニッチ(隙間)がたくさんあったわけです。最初は標準型のモズだったものが、さまざまな環境ごとに、形態的、生態的に多様化し、各々の環境に適応していったのでしょう。
― 獲得形質は子孫に伝わらないという法則がありますが、十四種類の形質はどうやって受け継がれたのでしょう。
山岸 まず突然変異ありきです。あくまで遺伝子から形質が生まれるわけで、その逆はありません。たとえば、突然変異でくちばしの長くなったモズが現れます。彼らの生活環境ではその形質が優位に働き、そうでないモズが淘汰され、結局くちばしの長いモズが残ったと考えるわけです。今我々が目にしている動植物の形質も、自然淘汰の結果できたものです。そう考えると、自然淘汰とは神と置き換えてもいいですね。
― その自然淘汰により、地球誕生以来膨大な数の生命が生まれ、また絶滅しているわけですね。
山岸 我々の周りは命に満ち満ちているようですが、地球誕生以来、九割以上の種が絶滅したと言われます。地球の歴史とは、ある意味で絶滅の歴史です。おどろおどろしい表現ですが、ごく自然なことなのです。問題なのは、人類の誕生以来、自然淘汰とは別の理由で人類外の別の生命の絶滅のスピードが増したことです。一説では、種の寿命は平均して数万年と言われますが、人間だけがおのれの種の寿命とともに、他の種の寿命も変えられる厄介な存在であることが問題なのです。
「共生」とは、
互いの分をわきまえ生きること
― 実際、人間が己の利便性のみで生きるために、自然環境が破壊されていると危惧する声もあります。
山岸 人間と野生動物の共生という言葉が叫ばれますが、僕の考えでは、共生とはお互いの分をわきまえた上で、互いが生きている状況です。「野生動物は愛護すべき」という建て前が先行し、人間の分を犯している動物も野放しにしているのが現状で、日本各地でさまざまなトラブルを起こしています。動物愛護が建て前だったはずなのに、自らに害があると分かれば、とたんに有害鳥獣として殺しにかかる、人間とは実に身勝手な生き物です。互いの分をどこに置くべきか、長野県環境保全研究所などでぜひ研究してほしいですね。
― 両者の分を知るためには、私たち自身ももっと自然の中に入っていき、生態系のあり様を学ぶ必要がありそうです。
山岸 ええ。今の子どもたちは自然の中に入らなくなりました。映像などバーチャルな世界では、世界中の動植物を見知っていても、実物を見ていません。それがどれほどの大きさで、どんな匂いがして、手触りはどうで、どこまで人間に警戒心があるかなど体験として知りません。知識はあっても、野生動物との付き合い方、距離感がつかめず、フィールドに出ても役に立たない学生が増えました。
― 大学の学生も多様性がなくなったのでしょうか。
山岸 金太郎飴のごとくです。昔は何か一つでも他人より長けた才能をもった学生がいたものですが、寂しいですね。
― 動物学的見地からしても、多様性を失った状況は種として危険をはらんでいませんか。
山岸 昔は子どもにとって、生態的ニッチが非常にたくさんあったのだと思います。今は子どもを計る価値観が均一になり、子どもはその分生き辛くなっている気がします。
― 個性教育という言葉もいかに建て前であったかが、分かりますね。本日はとても楽しいお話を伺いました。ありがとうございました。
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