| 夢を叶える努力も、
その環境作りも自分の責任です
長野冬季パラリンピック開会式の印象は今も鮮やかだ。会場となったエムウェーブの空間のすべてが、人が生きることの懸命さと可憐さを謳い、そして讃えていた。あのひと時は、私たちにとって忘れがたい財産となった。このイベントの総合プロデューサーを務めたのが、作曲家・久石譲さんである。
久石さんは、現代日本を代表する作曲家・演奏家としてだけでなく、宮崎駿監督作品や北野武監督作品で、数多くの映画音楽を担当したことでも知られる。今回は、久石譲さんに、ご自身の音楽への想いについて語っていただいた。
パラリンピックの認知が課題だった
― 久石譲さんは長野パラリンピックのプロデューサーとして、私たちに新鮮な感動を届けてくださいました。あの折は、かなりのご苦労があったことと思いますが。
久石 僕が引き受けたのは、開閉会式や表彰式など、セレモニーをプロデュースする仕事です。けれどその前提として、大きな問題がありました。
世界の国々からは、東洋で初めて行われる冬季パラリンピックとして、当初から認知されていました。長野県自体は地元ですから、本番が近づけばある程度盛り上がると予想できました。問題は、どうやって日本中がこのイベントに目を向ける空気を作るかでした。セレモニー自体の演出はもちろん大事なのですが、競技全体に目を向けてもらうために、自分はどう動いたらいいのか、その点にいちばん苦労しました。ですから、私自身が広告塔になって、テレビ番組などのメディアに出てパラリンピックを認知してもらう努力をしました。
― 演出家としてのお仕事はあのときが初めてだったのですか。
久石 その前にもイベントの演出は何度か経験があったので、流れはつかめていました。ただ、あれだけの大きな規模のイベントをプロデュースしたのは初めてでした。
― オリンピックの開閉会式と比較しても、パラリンピックの開閉会式はとても感動的だったように思います。演出家の理念や哲学が感じられました。
久石 ありがとうございます。お祭り的なセレモニーに終止させないで、ひとつのきちんとしたメッセージをもって仕上げようと考えていました。パラリンピックの開閉会式に関しては、日本より海外の評価が高かったようです。
たとえば、こんなこともありました。会場となったエムウェーブの天井は舟吊り型の木でできていて、聖火台を中央に据えようとすると天井が邪魔になったんです。かといって会場の隅に置くのは嫌だった。どうしてもど真ん中に大きな聖火を灯したいのだけれど、消防法に触れてしまう。中央にあれだけ大きな火を焚くことを、許可してもらう交渉で二年半かかりました。
― 最終的にはOKが出たわけですね。
久石 ええ、いろんな手を使いましたけど。法律では室内で二十センチ以上の火を焚いてはいけないことになっていたので、二十センチの火を複数束ねたら問題なかろうと、百何十本まとめたらすごい火になりました。何度も実験を繰り返し、最終的には会場の方々や県の協力があって、あの室内にあれだけ大きな聖火を灯すことが実現できました。
― パラリンピックを運営する側の参加意識はどうでしたか。
久石 ボランティアも数多く参加してくれましたし、皆さん熱意を持っていましたよ。
― 本番は会場を埋め尽くす人の渦でしたものね。
久石 ボランティアと、その他で五千人ぐらいの人を使ったと思います。そこで万一起こりかねない事故や不祥事は僕の責任になりますから、相当腹を括って取り組みました。それほどの責任を覚悟すると、何が起こっても怖くなくなるものですね。
― こういう言い方は語弊があるかもしれませんが、パラリンピックはそれまでオリンピックの付属物のように、日本国内では考えられていました。ところが長野パラリンピックの開会式終了後、両者がまったく対等になった印象を私たちは持ちました。大会期間中もたいへん盛り上がりましたし、あの開会式のインパクトが相当あったのだと思います。
久石 実は当初、開会式もテレビでオンエアするかどうか分からなかったんです。たまたま放送してみるとすごく評判がよかった。そこで、もともとオンエアの予定のなかった閉会式も急に中継が決まりました。準備から始まり、一連のセレモニーをやりながら、どんどん評判がよくなった気がします。そういう意味では本当によかったと思います。
誰とでもニュートラルに接したい
― プロデューサーとしてのご苦労のほかに、長野パラリンピックを通してお考えになったことはありましたか。
久石 いわゆる健常者と障害者の関わり方についてですね。我々が障害者と関わることが、普段あまりにも少ないですから、障害者が日常ではない分だけ、我々は彼らに接すると驚いてしまいます。だから、しなくてもいいことまでしてあげすぎてしまうと思います。いちばん大切なのは、「ヘルプ・ミー」と言われるまで何もしないことではないでしょうか。
― できるだけ自立を促すということですね。
久石 障害者の生活を健常者のそれと同じにするために、何でも周りが先回りして、「してあげる」のではなくて、まず彼らの決定権、選択権を尊重することだと思います。障害者の自立とはそういうことだと思うのです。日常的に人間同士が接するスタンスと一緒ですよ。健常者同士ではそれができるのに、障害者に接する時は、その「日常」がうまくいかない。その辺りが難しいのでしょうけれど。
― 介助する側が障害者に対し「助けていますよ」と、同じ視線に立てない不自然さがありますね。
久石 もしかしたら、障害者に甘えが出てしまうことになりかねませんね。パラリンピックの期間中たいへん勉強になりました。外国のスキー選手は、自分で自分の道具を携え、リフトに乗り、滑走の準備も全部自分でします。日本の選手はすべて周りがセットしてあげていました。
僕はできるだけニュートラルに接することを心がけています。あのイベントの後、障害者ドキュメントの番組に出てくれと、いくつもお話をいただきましたが、僕はすべて断りました。どなたであっても、自分の中の日常として、お付合いしたかったからです。
― ニュートラルを心がけることは、たとえば子育ての場合にも重要ですね。子どもの自立への決定権を奪い、子どもをスポイルする可能性もありますから。また、同様のことが企業においても言えるかもしれません。甘やかされたまま、独立心も気概も持たない経営者が日本には少なくありません。
久石 そうなのかもしれません。ただ、難しい問題ですね。貿易自由化と言われるときも、これまでの保護政策をいきなり変えて、人々を嵐の中にさらしていますよね。自転車に一人で乗れないのに、勝手に補助輪を取ってしまうようなものです。結局、甘やかすにしろ、突き放すにしろ、自立する方法を教えずに、自立のための決定権を一方的に奪っているのだと思います。
四歳の時に音楽家を志す
― 久石さんは中野市のご出身ですね。故郷で過ごした少年時代について聞かせてください。
久石 四歳から小学校を卒業するあたりまで、鈴木鎮一さんの教室でヴァイオリンを学びました。中学校ではブラスバンドをやりました。この二つが、音楽的には自分にとって大きかったと思います。
宮崎駿さんの映画音楽をやっていますと、「自然を好まれる方なのですね」とよく言われますが、実はそうでもないですね(笑)。後になって自分の仕事を振り返ると、故郷の風土の影響もあったのかなと、結果的に考えもしますが、昔親しんだ風景や環境と、こうして自分が音楽をやっていることとは別でしょう。
― いつ頃から職業として音楽を選ぼうと思われたのですか。
久石 四歳の時です。もう音楽以外はまったく考えていませんでした。あまたある職業の中から、音楽を選ぶんじゃなくて、生まれて音楽に触れた瞬間に、自分は音楽にいくのが当たり前だと思っていました。
― ハイハイして最初に手にしたのが筆だった赤ん坊が、ゆくゆく作家になったみたいなお話ですね。
久石 結構それに近い逸話がずいぶんありますね。一回聴いたらとにかくどんな音楽でも全部覚えました。ラジオで流れる曲も、お祭りのお囃子なども全部覚えたらしいです。
― ご両親からすると、この子はすごく音楽に敏感な子だと思われたのではないですか。
久石 いや、そんなに文化性が高くないですから。両親をはじめ、周りは「困ったね」ぐらいにしか思っていなかったと思いますよ。才能があると認知するには、認知する側にも才能が要りますから。大人にある程度の音楽的教養とかなかったら、子どもにどの程度の才能があるかなんて分からないじゃないですか。
― 音楽といってもさまざまな分野がありますね。演奏家になろうとは考えなかったのですか。
久石 僕は子どもの頃から、人の譜面を見て、それを演奏するのに喜びがなかったんです。それよりは聴いたメロディーを譜面におこしたり、それをアレンジしたりする方に興味がありました。自分は「作る」側だと思っていたんですね。
そして、中学の時に黛敏郎さんの「涅槃交響曲」やシュトックハウゼンの曲に触れてしまったのが、現代音楽の作曲家を目指したきっかけです。その後音大に進み、二十代の頃は前衛的な現代音楽をやりました。
― これまでのお仕事の中で、ご自身が個人的に大事にされている作品をあえて挙げるとしたら、何になるのでしょう。
久石 みんな大事なんですよ。強いてあげれば、「風の谷のナウシカ」が非常に印象に残りますね。
目の前のことを
真剣にやっていただけ
― 宮崎駿さんと初めて仕事をされたのは、その「風の谷のナウシカ」が初めてでしたね。
久石 ええ。三十を越えてからです。宮崎さんとの出会いは、世間の方に僕の名前を覚えてもらう仕事としてとても意義のあるものでした。
― それまでご自身のスタイルを築かれてきた久石さんが、アニメの音楽を担当することについて、当時はどうお考えになりましたか。
久石 それまでも小さな映画の音楽や、テレビの音楽をやっていましたが、宮崎さんのアニメは劇場公開用の長編です。音楽的にはやりたいことをやれる世界だと思いました。
― これほどまでに宮崎アニメが世界に浸透していくと、当時から予感していたのですか。
久石 いえ、評価は後からついてくるだけですから。結果については考えたこともなかったですね。目の前にあることを真剣にやっていただけです。アニメだからというのではなく、何をやったとしても精一杯やっていたと思います。
― アニメの場合、曲作りはどんな形で進行していくのでしょう。
久石 絵コンテを見せていただいて、物語の内容を理解しながら、話し合いを通して曲作りも進めていきます。制作期間は、イメージアルバムの制作を含めるとすごく長い時間が掛かります。
― どの作品にも、外から見えないご苦労があるのでしょうね。
久石 ほとんどのケースでそうですね。ものを作るというのは、何もないところから、何かを生み出すわけで、七転八倒するような思いもします。
― 心身ともにお疲れになったときなど、気持ちを切り替えるのもたいへんかと思います。
久石 一日曲作りにチャレンジした結果、曲ができても、どうも腑に落ちなかったりする。夜中一人になると、ふとした発見ができることがあります。そして「明日またここを直そう」と気持ちを前に向けています。
だから、夜中一人で、好きな音楽を聴きながら、あるいは本を読みながら、ときにはお酒を飲みながら、ゆっくり過ごす時間がいちばん大事じゃないでしょうか。
個々の作品は、
自分のテーマの流れの中にある
― 音楽の世界で、今、どんな分野に関心をお持ちですか。
久石 ここ数年の仕事の中で、オーケストラの位置がすごく大きくなっています。ここしばらくは、作曲だけでなく、指揮者活動も含めたオケとの関わりが増えていくかもしれません。また一方で、昨年、ピアノソロアルバム「ETUDE」を出しました。作家活動というのは、一つ一つの作品や仕事が、点ではなく、一連の流れの中で線としてつながっています。僕が信じてこれまでやってきたラインの中で、その時々の仕事に真剣に打ち込み、ラインの先にあるものを模索しています。
― 二〇〇一年には、映画監督としてもデビューなさいましたね。
久石 はい。「カルテット」では、監督、脚本、音楽、演出をやらせていただきました。宮崎さんを始め多くの映画監督の方々とお付合いがありますから、同じ土俵の上に上がるのは嫌だったんです。けれど、自分が音楽映画を作るのは、僕にとってはあくまで音楽の範疇の表現です。ですから引き受けました。
― 映画のお仕事も、久石さんの作曲家活動の流れの中にあるわけですね。
久石 ええ。音楽だけでは表現できない自分のテーマや想いがあって、音楽映画をつくったわけで、何にでも手を出したいというのではありません。その時にその方法論でしかできないと、自分で感じた時に、その方法をとるということですね。
― 音楽も映画も、作り手に対して受け取る側がいますよね。久石さんは作り手の側として、聴き手を意識することはあるのでしょうか。
久石 聴衆の皆さんは、専門的な知識はないかもしれないけれど、非常に優れた嗅覚をもっていますよ。昨今CDがあまり売れない状況にありますが、聴く側は自分の背丈に合うものを、自分で選んで聴いています。僕らもそうだけど、朝起きていきなりベートーベンの「運命」は聴きたくないじゃないですか。寝る前なら現代音楽よりバッハやモーツアルトの方がいい。一日の中でも聴く曲を選ぶように、暮らしのシーン、あるいは年代ごとに、誰もが自分の嗅覚で自分が聴くべき音楽を選んでいますよね。
― つまり聞き手の方も成熟しているわけですよね。
久石 ええ。日本は世界で最もコンサートの数が多い国ですし、ほとんどのコンサートが人で埋まっています。音楽を楽しむことは、皆さんごく自然にやっていると思います。
自分が納得する方法で
夢の実現を
― 故郷である長野県への思い、ご要望などございますか。
久石 長野に限ったことではないのですが、地方都市にコンサートに行くと感じることがあります。テレビなどのメディアを通して、地方と東京が中途半端につながってしまっているために、地方が空洞化し、文化的なものが育ちません。テレビを通して、東京とまったく同じものを見聞きし、また流行のものを持っているんだけれど、自分からコンサートに足を運ぶような文化レベルが少し落ちるような気がします。
交通手段の制限や、そもそもコンサート数が少ないなど、仕方のない部分もあります。また、映画館も長野市や松本市には数多くありますが、他はそうでもない。文化に接する時間が限られてしまっていると思います。もっと、日々の生活の中で、絵を覧る、音楽会に聴きに行くなどしてほしいですね。一朝一夕にできることではないと思いますが、地方の方が、文化を生活に取り入れる方法はないものだろうかと考えます。
― また、長野と東京が新幹線により一時間半で結ばれ、中途半端に東京の郊外のような存在になったことで、土着的な文化や風土が持っていたよさを、気がつかないうちに捨ててしまうこともありますね。
久石 僕もそう思います。
長野には食に関してもいいものがたくさんありますよ。信州で生まれ育った影響かもしれませんが、煮っころがしとか田舎の家庭料理が、食べていていちばん安らぎます。野沢菜にしても、冬の信州に行って食べないとおいしくないじゃないですか。あの寒さとあの風景の中で食べてこそ、おいしいですもの。
― 漬物桶に薄っすら氷が張るくらいにですね。
久石 そうそう(笑)。だから知人にはよく言うんです。「食べる一時間前に冷凍庫に入れて食べれば、本場に少し近い」って。
― 最後に、長野県の若者に対して、ひと言メッセージをいただけたらと思います。
久石 やりたいと思ったことをやっていくこと、そして、やりたいことをやるための環境も自分で作っていくことでしょうか。自分の夢を実現するためには、その環境作りも自分の責任です。他人任せにせずに、自分が納得する方法をとってほしい。夢が実現する場所は長野でも、日本でも世界でもどこでもいいんです。人生ってそんなに長くないから、やりたいことをきっちりやって、後悔しないことがいちばんですね。
― 人が何かをしてくれるのを待たず、自分の夢にまっすぐに向き合ってほしいですね。今日は素敵なお話をありがとうございました。
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