真田といえば、大坂の陣で華々しく散った真田信繁(幸村)が有名ですが、実は、明治維新まで約250年続いた松代藩の基礎を築き、真田の家名を後世まで残したのは、他でもない、信繁の兄である真田信之です。

2016年NHK大河ドラマ「真田丸」では、大泉洋さん演じる信之が重要な役どころで登場。その存在に改めてスポットが当てられています。

このページでは、真田信之がいかにして松代藩主となったのか、戦国の世を駆け抜けた真田一族の物語をご紹介します。

もとは、東信濃の小豪族・海野氏をルーツに持つ真田氏。その礎が築かれたのは、真田幸綱(幸隆)の時代です。

幸綱は、信濃侵略を進める甲斐の武田信玄に仕え、武田軍の先鋒として、川中島の戦いなどで活躍。幸綱の長男・信綱、次男・昌輝も取り立てられました。 さらに、三男・昌幸は、信玄にその器量を高く評価され、武田の名門・武藤家に養子入りしていたといわれています。

信州、西上野攻略で力を発揮し、武田家から絶大な信頼を得た真田一族は、その地位を確固たるものにしていきました。

※表裏比與…裏表があり、油断できない人物。
一筋縄ではいかない策士のこと

幸綱の死後、1575年に勃発した「長篠の戦い」で真田家がくみした武田軍は、織田信長、徳川家康連合軍に大敗。長男・信綱、次男・昌輝もこの戦いで討ち死にし、三男・昌幸が真田の家督を継ぐこととなりました。

昌幸は、信玄の子・勝頼を支えて奮闘しましたが、織田信長によって武田家が滅ぼされると、信長に臣従。ところがその直後、信長も本能寺で討たれ非業の死を遂げます。その後、昌幸は、上杉、北条、徳川と次々と手切れと盟約を繰り返し、苦労の末、真田と上州の岩櫃、沼田一帯を押さえることに成功。上田城を築き、東信濃随一の武将に成長しました。昌幸は、その変わり身の早さから「表裏比與(ひょうりひきょう)の者」と評されています。

上田城築城後、家康が北条氏との取り決めで、上州の沼田城を北条氏に譲るよう命じると、昌幸は家康の元から離れ上杉方に翻りました。これに激怒した家康は大軍を率いて上田に攻め入りますが、昌幸は鮮やかな采配で大軍の徳川勢を撃退。長男・信之も大いに貢献しました。このとき、信之は弱冠20歳という若さでしたが、すでに名将の片鱗をのぞかせていたといいます。

その後、豊臣秀吉の裁定によって、徳川家康の配下となり、信之の元へは、家康の側近である本多忠勝の娘・小松姫(大連院)が嫁ぐことになりました。

1600年、天下分け目の「関ヶ原の戦い」で真田父子は別々の道を歩むことになります。小松姫を妻に迎えていた信之は東軍に、石田三成とつながりが深かった昌幸と信繁は西軍につきました。これはどちらが勝っても真田の家名を残すための、昌幸らしい策略であったともいわれています。

信之と別れた後、昌幸と信繁は上田城に籠り、関ケ原に向かう家康の子・秀忠の軍と戦います。秀忠軍を約10日間にわたって足止めしましたが、最終的に東軍が勝利したため、昌幸と信繁は高野山に幽閉されます。しかし、なんとか切腹を免れたのは、信之の必死の嘆願があったからだといわれています。

その後、信之は幽閉先で苦しい生活を送る昌幸と信繁に、何度も手紙や生活費、身の回りのものを送ったといいます。一旦は敵同士になっても、信之の家族への思いは途切れることはありませんでした。信之とは、実に誠実で優しさにあふれる人物だったのです。

その後、昌幸は高野山で没しますが、信繁は大坂冬の陣・夏の陣で、再び西軍方に加わって戦います。 冬の陣の際、信繁は(大河ドラマのタイトルの由来でもある)「真田丸」と呼ばれた出城を大坂城に築くと、徳川勢を近くまでおびき寄せ、銃撃によって先鋒隊を撃退することに成功しました。

徳川家康は、信濃一国を与えることなどを条件に東軍に寝返るよう説得しましたが、信繁は断固としてこれを拒否しました。

やがて夏の陣がはじまると、信繁は決死の覚悟で家康本陣に切り込むなど獅子奮迅の戦いを展開。真田軍のすさまじい勢いに、家康も一時は自害を覚悟したほどだといわれています。

しかし、兵力で勝る徳川勢に盛り返され、やむなく退却。最後は、神社の境内で休んでいたところを敵方に発見され、あえなく討ち取られてしまいます。享年49歳。戦いには敗れたものの、「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」と賞された信繁の生き様は、のちに小説やドラマにもなり、現代まで語り継がれています。

父弟と決別して徳川方についた信之は、「関ヶ原の戦い」後、父・昌幸が築いた上田城を継ぐことを許されます。その後、松代へ移封となり、松代十万石を治める大名となりました。

太平となった江戸時代を93歳まで生きた信之は晩年、戦国を知る最後の大名となり、老いてなお「信濃の獅子」と幕府からも一目置かれる存在でした。

松代藩は廃藩まで約250年続き、信之は「真田の家名を守り抜く」という、使命を見事に果たしたのです。